国吉城 [1/2] 朝倉氏の攻撃を何度も退けた難攻不落の山城。

国吉城 (くによしじょう) は、若狭守護 武田氏の家臣・粟屋勝久によって室町末期に築城された、若狭東部の山城。越前・近江との国境近くにあり、たびたび越前朝倉氏からの攻撃を受け撃退したという。戦国の世になり織田信長が勢力を拡大すると、勝久は信長に付く。元亀元年(1570)、織田軍の越前攻めではここ国吉城で信長らが軍議を開いている。しかしその直後 越前金ヶ崎城で浅井の裏切りが発生、挟み撃ちとなった織田軍は総退却した。その後 時代の移り変わりとともに丹羽長秀、木村常陸介、京極高次ら城主が入れ替わり、越前口の最前線として改修・城下町の整備が行われた。江戸時代には山麓に佐柿陣屋が築かれ明治を迎えた。

<基本データ>
●名称:国吉城
●所在:福井県美浜町 (地図)
●築主:粟屋勝久 (Wikipedia)
●築城:1556年(弘治二年)
●遺構:石垣、土塁、堀切、曲輪跡

訪問時期:2015年10月
国吉城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

kuniyoshi-5712国吉城 遠景。山麓には城主館跡などがある。現在は駐車場や資料館がある。

kuniyoshi-map-5978資料館の中に展示されている国吉城 縄張図で配置確認。画面下のつづら折れの道が登城路で、まずは左の二ノ丸を散策後、本丸および連郭曲輪群へと向かおう。

kuniyoshi-5990a-5956難攻不落 若狭国佐柿 国吉城!のノボリ。1563年に始まった朝倉氏による国吉城攻めは、何と数年間に渡り城主粟屋氏が撃退し続けたという。その戦いぶりは古文書などで「国吉籠城戦」として今に伝えられ、以降「国吉城=難攻不落」となった。

kuniyoshi-5719では城下の屋敷跡等は降りてからにして、まずは山上の国吉城跡へ行こう。獣害避けの柵扉を開けて入る。

kuniyoshi-5719a-5718本丸跡まで山麓から約500m。急斜面なので、500mという数字以上のしんどさがある。

kuniyoshi-5720では登城開始。斜面をやや切り開いたような山道が延々と山頂まで続く。

kuniyoshi-5728結構な急坂。二ノ丸まで約10分、本丸まで更に約10分の行程。

kuniyoshi-5732木々の間をぬって急斜面を登っていく。

kuniyoshi-5737この辺りまで来るとあと少しで二ノ丸だ。

kuniyoshi-5738二ノ丸と本丸方面との分岐点には、木の案内板が立っている。階段に沿って右へ進めば本丸方面。左に曲がれば二ノ丸。二ノ丸には巨大土塁があると先の図面に書いてあったので、見に行ってみよう。

kuniyoshi-5739伝 二ノ丸跡。奥の削平地がそうだ。

kuniyoshi-5740尾根をやや降りて、二ノ丸へ。既にここからでも巨大な土木工事がなされていることが見て取れる。

kuniyoshi-5742二ノ丸。尾根の上部を削平し、周囲を土塁で固めている。

kuniyoshi-5743二ノ丸の高い土塁は山麓側全面に築かれている。奥の方には更に高い土塁も見える。

kuniyoshi-5745巨大土塁で構成された立体迷路。400年経ってかなり削れた状態でもこの遮蔽感、往時は更に高く整形され、より要塞感がすごかっただろう。そして地面に「土塁」と書かれた説明板が通路上に埋まっている。見て分かる人には不要だし、見て分からない人はこれがあっても何が土塁なのか分からない、かも。

kuniyoshi-5747二ノ丸の一段と目立っていた高土塁へ。奥に行けば道が大きく右へ曲がっており、食い違い虎口を形成している。

kuniyoshi-5755二ノ丸 食い違い虎口の高土塁と、外周土塁。

kuniyoshi-5762では二ノ丸から登城路へ戻って本丸を目指そう。あと200m!

kuniyoshi-5768大きな切岸の周囲をぐるっと回る。あと少し。右側には石垣跡がある。

kuniyoshi-5769巨大な切岸の下部に残る石垣跡。石垣の上部は土のうで補強?されているようだ。元々はぐるっと周囲を石垣で巻いていたのだろうか?

kuniyoshi-5771縄張図を見るとこの右側の巨大な切岸の上が主郭跡のようだ。とはいえすぐ上ではなく、二段ほど曲輪があるその先。

kuniyoshi-5773主郭への入り口へ続く道沿いには先ほどに続いてこちらにも石積み跡があった。かなり小振りな石なので石垣というより石積みで土留めしていたのかもしれない。

kuniyoshi-5777切岸の反対側へ。堀切と看板があがっている。主郭の下に横堀が掘ってあるようだ。案内板によると、右側の斜面の上が本丸跡、左側に進めば連郭曲輪群へ。

kuniyoshi-5778堀切を覗いてみる。ただ削ってあるだけでなく、周囲を石垣で固めていたようだ。発掘調査されているのか、ここだけやたら石垣が露出し、また石垣に使用されていたものを取り出したのか、石仏などの転用石が正面奥に並べられていた。堀切と言っても浅いが、本来はもっと深い、つまり土を掘ればもっと高い石垣が出てくるだろう。

kuniyoshi-5782では主郭へ上がろう。石垣があった方は急角度の切岸だったが、こちらには道が付けられている。

kuniyoshi-5784道をどんどん登っていく。石がゴロゴロしている。石垣と書かれた看板もあったが、この看板の近くには石垣跡らしきまとまった石積みもなく、?な状況だった。看板設置後に石積みが崩れてしまったのだろうか? しかしここ以外ではいくつか石積み跡らしきものも見られた。

kuniyoshi-5788s主郭へ。入り口は周囲が土塁・石垣で固められた虎口になっていたのだろうか。しかし土のうを積みすぎて何が何だか分かりづらくなっている感もある。発掘調査中のため、と思いたい。

kuniyoshi-5790主郭中央部へ。白と茶色の入口部と異なり、緑色だ。やはり発掘調査中なのだろう、ビニールシートも多数見られる。

kuniyoshi-5791s主郭中心部に建つ、説明板と城跡碑と、謎の旗。なんだこれは。もしかしたら訪問時に団体客が居たので、その人達が持ってきて一時的に置いているだけかもしれない。

kuniyoshi-5792a-5819遠慮がちな城跡碑。國吉城 本丸跡、と書いてある。小さい。大正時代に建てられたものだそうだ。

kuniyoshi-5792b本丸跡 説明板。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。越前攻めのため国吉城を訪れた信長は、朝倉氏の長期間の攻撃から城を守り抜いた勝久を褒め称えた、とある。墓石や板碑が城内に大量にあるのは、国吉籠城戦の際に粟屋氏が事前に集めて攻め寄せる朝倉兵に投げ落としたと伝わるとか。

kuniyoshi-5796主郭奥には土塁(櫓台?)も残る。

kuniyoshi-5800主郭下には堀切跡。上から見てもゴリッと掘ってあることが分かる。

>> 国吉城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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