洲本城 訪問記 其の一。
淡路島東部、三熊山頂にある総石垣造りの近世山城、洲本城。古くは熊野水軍 安宅氏が淡路島各地に築いた土ベースの山城群の1つで、摂津河内に勢力を拡大していた三好一族となり引き続き島を制圧していたが、天正期には織田軍(羽柴秀吉)による淡路征伐で降伏。島は仙石秀久に与えられ、洲本城が淡路国の中心となった。その後 脇坂安治、池田氏と領主が変遷し、湾岸警備のため南東端の由良に拠点が移された際に一旦廃城。その後 淡路国は蜂須賀氏の所領となり由良は廃され洲本城が再建された。しかし旧来の山上の城郭は時代の流れでしばらくして廃され、山麓の平城が中心となった。現在山頂には昭和3年(1928年)に建造された日本最古の模擬天守が建ち、山麓の平城跡には資料館や裁判所等が建つ。山上に残る石垣の多くは脇坂氏時代のもので、朝鮮出兵での経験を活かしたと言われる「登り石垣」が築かれている。
<基本データ>
●名称:洲本城 (Wikipedia)
●所在:兵庫県洲本市 (地図)
●築主:安宅氏 / 仙石秀久 / 脇坂安治 / 蜂須賀氏
●築城:1526年 / 1582年 / 1585年 / 1635年
●遺構:石垣、天守台、登り石垣、水堀 等
訪問時期:2016年1月
洲本城 訪問記 − 其の一、二、三、四、五、六。
<訪問記>
電車がない淡路島。高速バスで洲本バスターミナルへ。バスを降りると、山頂にそびえる洲本城!絶好のロケーションだ。
時間的にちょうど逆行だったので見辛いが、バスターミナルから見る洲本城。天守台の上にまた天守台を作ってその上に模擬天守を建てるという洲本城の模擬天守は、昭和3年築の「日本最古の現存模擬天守」として名を馳せる。下の石垣は大半が脇坂安治時代(1500年代末)のものと言われる。
バスターミナルからお城の方へ向かって歩を進める。この辺りは城下町で、町家や武家屋敷は失われたが、江戸時代の政庁だった平城跡が残る(石垣と水堀)。現在は淡路文化史料館になっているので、まずはそちらへ。
石垣と水堀と土橋。奥の山頂には天守も見える。江戸時代、蜂須賀氏が洲本に政庁を戻した際に築かれた平城跡。
橋の前に建つ立派な史跡碑。山上の城跡も「洲本城跡」だが、こちら山麓の平城跡も同じ「洲本城跡」。
平城跡には史料館が建つ。中も入ったけど写真NGだったので紹介なし。お城ジオラマなど文化財じゃないものは写真撮らせて欲しいといつも思う。
洲本城址の説明板。初代城主(三好一派)の安宅は「あたぎ」と読む。脇坂安治の異動後〜という会社みたいな表現に思わずニヤリ。当時の表現なら、国替(くにがえ)、移封(いほう)あたりか。平城は昭和58年に市指定史跡、山城は何と平成11年にやっと国指定史跡。
平城の水堀沿いに歩いてみよう。平城跡は前述の史料館のほか、検察庁にもなっているようだ。どこからでも山頂の天守が見える。
一番端っこまで来た。櫓台が築かれているが、今は巨木が生えている。
平城跡の櫓台石垣。切りそろえた石を隙間なく並べて組む「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」だが、江戸城などで見られる目地が真っ直ぐにそろった美しい姿ではなく、グニャグニャ曲がった自由で芸術的な組み方をしている。中央辺りが丸くなっているところはステンドグラスを思い出させる。
反対側の端っこまで歩く。こちらは裁判所のようだ。やはり後ろの山頂には天守がそびえる。こちらにも巨大な櫓台跡。山上の山城跡へはこの櫓台の奥の道をまっすぐ山側へ進む。
裁判所の櫓台。
このあたりには江戸時代の建造物が移築保存されているお寺とか色々あるので、山を登る前に少し散策。そちらは訪問記では下山後にまとめて紹介するとして、散策中に天気が回復し、快晴に。これはこれで暑い。裁判所奥にある、山に向かって伸びる道から登山口へ。
洲本城はこちら、の看板。左へ曲がる。
コンクリート舗装されてはいるが、かなりの坂道になる。
かなり乱雑で崩れ気味な石垣が見えてくる。洲本城の石垣は脇坂安治の前の仙石秀久時代にも築かれていたそうだが、その時代のものかもしれない。あるいは近代の可能性もある(山上近くに神社がありここはその参道でもあるため)。
しばらく登るとT字路へ。山上へは左へ進むのだが、ここで敢えて右へ。
右へ進むと道はすぐ途切れる。左には大きな切岸、そして削平地(曲輪)。地図によるとこのあたりは洲本城に二本築かれた「登り石垣」の西側の先端部にあたる。奥へ。
登り石垣(西側)の先端部。と思われる場所を発見。低いし上もしっかりしているので上にも登ることが出来る。このまま登り石垣の上を通って上へ向かおうとしたがすぐに草ぼうぼうとなり断念。
では先ほどの道へ戻り、山上へと続く方へ。
岩石露出。三熊山の岩石は約7,000万年前(中生代白亜紀末期、恐竜の時代)に海に堆積した和泉層群の地層で、東西300km、厚さは何と1kmもあるという。左に小さく写る説明板に記載。
しばらく進むと「西登り石垣」の標柱が現れる。周りを見回しても、石垣は見えない。
実は標柱は実際に登り石垣がある場所より少し奥に建っている。標柱の後ろに回って斜面の奥を見ると、この位置で見える。斜面に沿って長い石垣が縦に構築されている。登り石垣のある場所には、ここからでは斜面が急すぎて大変なので、少し進む。
道沿いに更に奥へ進む。カーブしているところに、巨大なカーブを描く石垣。カービング石垣は、沖縄のグスク(今帰仁城、中城城、勝連城、座喜味城)や、徳島城など国内の城でもいくつか見られる。
結構長い石垣。そして高さも結構ある。石が小振りで、現地に説明板等もなく、当時のものかどうかはよく分からない。
そしてこの長い石垣の先端部あたりから、この石垣の上にあがることが出来て、そのまま登り石垣の方までたどり着ける。
登り石垣が見えてきた。
西登り石垣。結構崩れている。斜面に築いていて安定感が平地より無いからか、崩れやすいのかもしれない。
登り石垣に沿って降りてみる。途中で木が生えてきたりしてそれが原因で崩れているのもありそうだ。斜面はかなり急なので、登り石垣に沿って降りるのはかなり大変。
上の方はかなり草木が生えているようだ。よく見えるのは道の少し上の一部分だけ。
よく残っている隅部。登り石垣も一直線ではなく、時々折れ曲げて死角が出来ないよう作ってある(横矢掛け)。
登り石垣の隅部。石垣は隅が肝要、隅部はたいてい巨石が積み上げられているのは登り石垣も同じだった。斜面にこれだけの巨石を持って上がるのはさぞ大変だっただろう。
いわゆる「扇の勾配」とは逆角度にカーブを描く隅石。時とともに沈んでいった?
こんな感じで基本は斜面にまっすぐ築かれているが、時折先ほどの隅部のような凸部が築かれ、横矢を掛けられるようになっている。
西登り石垣 全景。
>> 洲本城 [2/6] へ続く。<<
訪問時期:2016年1月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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