置塩城 訪問記 其の三。
[前回までの訪問記 概要]
山麓登山口より約50分かけて主要部入口へ到着。かなりハードな登山だ。石垣跡や巨大な掘割、土塁、切岸などを見ながら、伝三の丸、伝二の丸を越えて、一番東奥の山頂に残る伝本丸跡へ。ここから順に西に戻りながら遺構を散策していこう。
訪問時期:2016年2月
置塩城 訪問記 − 其の一、二、三、四。
<訪問記>
伝本丸よりスタート。
伝本丸 全景。中央奥の木の前に石碑が見える。
史跡 置塩山城 本丸跡 石碑。。。なのだが、無残にも真っ二つに折れている。なぜこんなことに。
伝本丸からの眺望と、眺望マップ。正面の山は支城「番城山城」で、置塩城発掘調査の際に合わせて調査が行われているそうだ。姫路城は向かって左奥、見えない。
では伝本丸を降りて、先ほどの道を真っ直ぐ奥へと進み、本丸南曲輪群へ行ってみよう。こちらが本丸南曲輪群。群とあるので、尾根に沿って幾つかの曲輪が連続している。
奥を覗いてみると、尾根に沿って曲輪群が形成されていることが分かる。降り口が分からなかったので下には降りず。
本丸南曲輪群へ来た目的はこれ。本丸南側に、僅かながら石垣跡が残る。南曲輪から本丸斜面を少し登ったところにある(下からも見える)。当時はこの調子で全周ぐるっと低い石垣が積まれていたのだろう。現在は虎口周辺とここ南側に僅かに残るのみ。
では伝本丸から西へと戻り、伝二の丸へ向かおう。
掘割を西へ。伝二の丸。左側の盛り上がりの上が伝二の丸の東端にあたる。何となく、入口のような斜面が形成されている。
伝二の丸へ。何段かの段差で構成されている、かなり広い曲輪のようだ。現在は伝二の丸と呼ばれているが、恐らくここが城主赤松氏などが滞在していた主郭跡だろう。ここは帯曲輪的な場所で、主要部は正面一段上。
右側を見ると、石列が見える。
伝二の丸下 帯曲輪に残る石列。石列の上にはしっかりした城壁(土塀あるいは板塀?)が築かれ、区画されていたのだろうか。
そして人工的に美しく均等に盛り上げられた、伝二の丸主要部の土塁。
伝二の丸主要部へ上がってみよう。何となく虎口っぽい場所を見つけたのでここから上がる。
伝二の丸主要部。かなり広く削平されており、礎石だろうか石がゴロゴロしている。
二の丸跡の無残な標柱。夢前町名義なので古い(平成の大合併で姫路市となった)。
史跡 置塩山城 二の丸跡 石碑。伝本丸の石碑は真っ二つだったが、こちらは健在だった。しかしやや分かりづらい場所に建っている。
伝二の丸の周囲(掘割側)は僅かながら土塁の跡が見受けられる。
そして伝二の丸は中央部分に再度段差で区画されている。上の部分が城主の屋敷があった場所だろうか。発掘調査の結果、かなり大規模な礎石建物や、庭園跡なども見つかっているという。埋め戻されているのか、現地にはまったくその様子や説明等はなかった。
コチラ側の段差には、低いものの石積み跡が部分的に見受けられる。
伝二の丸 段差に残る石積み跡。
伝二の丸 中央区格の段差全景。真ん中あたりにやや凹んだ場所がある。ここにかつて門があったのだろうか。
伝二の丸 土塁跡。
伝二の丸 南側は大きな切岸が築かれていた。コチラからは到底上がれそうにない。下の曲輪のもう1段下が、最初に見た石垣跡。
伝二の丸の巨大な切岸を上から見下ろす。下は掘割。
さて伝二の丸の散策を終え、掘割へと再び戻ってきた。次は掘割北側の伝三の丸へ向かってみよう。迷いがちな置塩城跡において、案内板が随所に建てられているのはとても助かる。
切岸を登って、伝三の丸へ。二の丸よりは狭いものの、こちらも立派に削平された巨大な曲輪だ。
中央部には例の石碑。なぜ「置塩山城」という名称になっているのだろう。
伝三の丸より、伝二の丸との間に掘られた掘割道を見下ろす。結構な高さだ。左奥に見える切岸の上が、先ほど見に行った伝二の丸。
伝三の丸に落ちていた、焼けた跡のような変色が見られる石。
伝三の丸の北奥には、結構な落差のある低い曲輪が設けられていた。降り口を探す。
何となく降りれそうな坂道の入口らしき場所を見つけた。ここから降りる。
伝三の丸北側の曲輪へ。
伝三の丸の切岸を見返す。結構な高さだ。右の方の斜面(スロープ?)から降りてきた。
このあたりは北曲輪群と呼ばれるエリアのようだ。
北曲輪群の周囲には細長い帯曲輪が形成されている。その帯曲輪から、北曲輪群の周囲に築かれていたであろう石垣の一部が見られるという。降り口は特に無いが、頑張って降りる。
北曲輪群 外周石垣。
北曲輪群 外周石垣。かつてはぐるっと構築されていたのだろうが、現在残っているのはこれぐらい。よく見ると上の段にも石積みらしき跡が見える。高石垣ではなく、3−4段程度の低い石垣を何段かに分けて積んでいたようだ。
北曲輪群から西へ向かい、伝三の丸の西側へと回り込む。左の巨大な切岸の上が伝三の丸。
ここにも石垣の残欠だろうか、石材がゴロゴロしていた。
このあたりは西曲輪群と呼ばれているようだ。余り整備がされていないのか、土塁や竪堀が残っているように縄張図には書いてあったが、現場ではよくわからなかった。
唯一見られた西曲輪群の竪堀。かなり埋まっていて分かりづらい。
>> 置塩城 [4/4] へ続く。<<
訪問時期:2016年2月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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