小城盛 : 竹富島に残る琉球王府の火番盛(遠見番所)跡。

小城盛 (クスクムイ) は竹富島北部に残る石積みの遠見番所跡。江戸初期に薩摩藩が要請し、琉球王府が八重山諸島各地に設置した海上監視所「火番盛 (ひばんむい)」のうちの1つで、琉球石灰岩を巻き貝のように積み上げた塔になっている。八重山諸島間の連絡網として各島の火番盛が狼煙台ネットワークを形成していた。国史跡。

<基本データ>
●名称:小城盛 (Wikipedia)
●所在:沖縄県八重山郡竹富町 (地図)
●築主:薩摩藩/琉球王府
●築城:寛永二十 (1644) 年頃
●遺構:石積み


<訪問記>

石垣島南端の離島ターミナルから約10分。あいにくの天気で波が高く揺れて大変だったが、竹富島へ。かつて薩摩藩の要請で琉球王府が設置した遠見番所跡(火番盛)を見に行ってみよう。

hibanmui-3695現地では遠見番所跡のことを火番盛(ひばんむい)あるいは小城盛(クスクムイ)と呼んでいる。地図でそれらを探してみよう。島中央の集落の北端あたりにある。世持御嶽(ゆーむちおん)という遥拝所が隣接している。こちらが御嶽の入口。何かのイベントをする/したのだろうか、訪問時 広場内には大きなテントの骨組みが建てられていた。

hibanmui-3698世持御嶽(ゆーむちおん)説明板。ここは琉球王府時代の村番所跡で、昭和初期まで村役場もあったが、その後御嶽となったという。農耕の神ということで毎年11月にここで種子取祭が行われ、国重要無形文化財に指定されている、村の中心的な場所のようだ。確かに他の御嶽に比べて非常に広い場所が取られている。

hibanmui-3699a-3697元番所跡・役所跡を印象づけさせる、石段や礎石の数々。奥の建物の更に奥にうっすら見える石積みが、目指す小城盛だ。

hibanmui-3699b-3694御嶽の前の巨木。デイゴという種類の木で、春には真っ赤な花を咲かせるらしいが、訪問時は冬なのでこんな感じ。それでも圧倒的な存在感だった。

hibanmui-3701では御嶽の奥に残る、小城盛跡を訪ねてみよう。御嶽の東側(向かって右側)を通る車道からもたどり着けるが、御嶽の広場からも直接行くことが出来る。

hibanmui-3703小城盛の脇には巨大な忠魂碑が建っていた。

hibanmui-3704では小城盛へ。入口はこちらの階段と、本体に巻き付くように設置された階段の2箇所ある。

hibanmui-3705a-3730石段の石材だけ琉球石灰岩ではなく普通の岩(花崗岩?)が使われているようだ。

hibanmui-3705b-3732石段の内部は本体と同じ琉球石灰岩。足を置く表面の岩だけが異なるようだ。琉球石灰岩はもろく壊れやすくガタガタなので歩きづらいから、だろうか。

hibanmui-3706a-3733では階段をあがって踊り場的な場所へ。最上部へ行く最後の石段はどうやら近年のコンクリート製のようだ。石碑が幾つか建つ。

hibanmui-3707「記念物 小城盛(クスクムイ・火番盛)」と掘られた石柱。

hibanmui-3708石柱の隣には、小城盛の説明が掘られた小さな碑がある。正保元年(1644)尚賢正時代 火番盛として建てられた。海上の監視や出入する舟の通報のため烽火を揚げた、とある。

hibanmui-3709a-3712小城盛の最上部。細長い場所で、土が敷かれている。烽火台的なものは残っていない。

hibanmui-3709b-3734小城盛の最上部、反対側から。

hibanmui-3710最上部に建つ石碑。消えかかっていて非常に読みづらいが、小城盛の由来が書かれているようだ。内容は踊り場にあったものとほぼ同様。

hibanmui-3710a-3735小城盛 最上部より、北側を見る。島の北部には位置しているが、海はまだかなり遠い。更にこの上に見張り台的な櫓が建っていたのだろうか、あるいは海水面は見えなくてもそれなりの規模の舟が海上を通っているとよく見えるのだろうか。右奥に見える島は石垣島。

hibanmui-3711小城盛から眼下を見下ろす。かつて何かの設備があったのだろう、石積みで囲われたスペースが有る。向こう側へ降りて、小城盛の正面を見てみよう。

hibanmui-3715御嶽横の車道から小城盛を見る。

hibanmui-3715a-3727車道側から小城盛へあがる石段。こちらも石段および周囲の一部は琉球石灰岩ではない。

hibanmui-3716小城盛の丸い形に沿って北側へ回り込もう。沖縄本島のグスク同様、琉球石灰岩で造られた部分は角部が無く、丸く形成されている。

hibanmui-3718小城盛 正面へ。巻き貝のように三段ほどの塔になっている。

hibanmui-3719a-3725最下部が北側へ延びて、一段高いスペースになっている。番人の詰所や狼煙用具材の保管庫など、何か建物があったのだろうか。

hibanmui-3722小城盛 全景。こじんまりとしているが、琉球時代のゆったりとした雰囲気が残る竹富島において少し異質な雰囲気を醸し出している場所だった。

hibanmui-3730a-3670おまけ:折角竹富島まで来たので、次のフェリーまでの間に少し島内を散策してみよう。竹富島では旧来の雰囲気を極力残そうとしており、ビルや現代風の商業施設などは殆ど無く、街中もこのような雰囲気で非常にステキな空間だ。

hibanmui-3730a-3672竹富島 説明板。島の中心部を囲む円形の道路があり、その内部が村落、外部は森だ。旧来の住宅や石積みの壁が並ぶだけでなく、御嶽や井戸なども多く残るようだ。島内の移動はほぼ自転車か徒歩となり、自動車は基本的に円形道路までしか入れないようだ。

hibanmui-3730a-3688sまた観光用の水牛車も人気のようで、街を散策している間、かなりの水牛車とすれ違った。ゆっくりした時間を楽しむなら、水牛車。

hibanmui-3730b-3684sでは竹富島観光名所の恐らく一番人気である、なごみの塔 という場所に来てみよう。戦後の琉球政府時代に造られた塔で、今や街のシンボル。

hibanmui-3730c-3673なごみの塔は小高い岩山「あか山丘」の上に建つコンクリートの塔。元々は展望台ではなく、住民への周知連絡のための塔だったとか。

hibanmui-3674なごみの塔が建つ赤山丘の説明板。塔が建設されたときのもの。なんと1158年 壇ノ浦の海戦に敗れた平家の落武者 赤山王がこの地に漂流し、ここに要害(城)を建てたという。壇ノ浦(山口県下関)から竹富島まで直線距離でも1000km以上あるが、鎌倉時代の舟で漂流とは、何とも信じがたい話が、そういう伝承が地元に残っているのだろう。で時代は下って1953年(昭和28年)この地が集落に寄贈されたことにより集会所あるいは子供の遊び場として塔や施設が建設された、とある。

hibanmui-3730c-3681では なごみの塔 に登ってみよう。丘の上に、高さ4.5mの細いコンクリートの塔が建つ。回りにそれ以上高い建物が見当たらないので、とても高く感じる。天気が良い日はこの下に順番待ちが出来るほどだと言う事前情報もあったが、あいにくの悪天候で、誰も居らず。

hibanmui-3730d-3677柱の裏側に1953年建立と刻まれている。平坦な竹富島の中にこの塔は非常に目立つ。この角度から見ても空ばかりが写るのがまさにその証拠。

hibanmui-3730d-3678なごみの塔の階段。登ってみると感じるかなりの急角度。コンクリートなのでグラグラ揺れはしないが、かなり怖かった。

hibanmui-3730d-3679なごみの塔からの眺望。赤瓦の平屋が建ち並ぶ竹富島の集落がまさに一望だ。天気が良いともっと良い眺望だろうなあ。

石垣島からフェリーで僅か10分の竹富島。都市化された沖縄本島や石垣島と異なり、昔ながらの琉球の雰囲気を維持する竹富島。石垣島まで来たら、ぜひフェリーに乗って、かつての遠見番所跡や町並みを見ながら琉球時代に想いを馳せるのもまた一興。おすすめ。

訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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