フルスト原遺跡 [2/2] 大浜地区に建つ英傑オヤケアカハチの像へ。

フルスト原遺跡 訪問記 其の二(全二回)。
Links: 其の一 へ。

[前回までの概要]
石垣島の南部、標高25mほどの小丘の上に残る石塁群「フルスト原(ふるすとばる)」遺跡へ。近くの空港の補修などで石材の多くは持ち去られたとのことだが、発掘調査を経て石塁の復元が進んでいる。南側から丘の上へ入り、1号から4号までの復元石塁を見た。後編では5号遺構の石塁、何故か離れたところにある史跡碑などを見て回ります。


<訪問記>

furusuto-baru-38394号石塁あたりから、道の向こう側の石塁を見る。地図によるとあれは15号だ。手前には土塁のような盛り上がりも見える。

furusuto-baru-384015号石塁の前にある石塁跡のような場所へ。説明板がある。

furusuto-baru-3841フルスト原遺跡内の古墓 説明板。集落としての利用が終わった後、墓地として利用された跡が残るそうだ。ここにこの看板が建てられているということは、この脇にある石積みは墓の跡、か。また遺構を南北に貫く道は、かつて軍用飛行機を移動するための通路として利用されていたものとか。

furusuto-baru-384315号石塁へ。こちらは真四角の区画のようだ。

furusuto-baru-384615号石塁の札が倒れていたので立て掛ける。

furusuto-baru-384715号石塁の前には横に長く石塁か土塁の跡のような場所が続く。これも墓の跡だろうか。

furusuto-baru-3848そして15号の北側、10号へ。地面をよく見ると何段かに分けて段差をつけているようにも見える。

furusuto-baru-385010号の前にあった説明板。15世紀に石垣島 大浜村で活躍した地元の英雄オヤケアカハチに関する説明もあり。オヤケアカハチがフルスト原に居たという証拠はないが、同じ時期に近くに存在したため、関係はあるだろう。銅像が大浜にあるようなので後ほど訪れてみよう。

furusuto-baru-385310号石塁。復元は平成10年度。最初期の復元のようだ。

furusuto-baru-3870広場にある復元石垣はここまで。図面にはもう1つ、森の奥に5号石塁が書いてあった。出口は北に抜けた先にあるので、帰り道に5号を探してみる。

furusuto-baru-3874この先はかなりの森の中を車道が通っている印象。道の向かって右側の奥に5号石塁があると書かれていたが、この森の様相ではなかなか探すのが大変そうだ。

furusuto-baru-3875そして少し森が切れた部分の高台の上に、草に埋もれた石積みが見えた。恐らくこれが5号石塁。広場ほど定期的な整備(草刈り)がされていないのだろう。石塁はここまでにして、北端の出口へと向かおう。

furusuto-baru-3883こちらがフルスト原遺跡 北端の出口部分。車道に直接面している。小さいがいくつか看板が建っているので、南端側よりも分かりやすい。

furusuto-baru-3889フルスト原遺跡には史跡碑があるのだが、非常に場所が分かりづらい。こちらが史跡碑。史跡碑と、説明が書かれた碑が建っている。フルスト原遺跡がある丘の東側の斜面の下にある。地図は後ほど。

furusuto-baru-3891フルスト原遺跡 史跡碑。

furusuto-baru-3892史跡碑の脇にあった地図。右が北。東面のちょうど中央あたり。碑を見たい人はこの地図を参考に。

furusuto-baru-3896史跡碑の近くに設置されている古い説明碑。昭和53年なので、石塁復元が行われる随分前のようだ。その頃は丘の上にあがっても何もないので、ここが史跡であり、目的地だったのかもしれない。

furusuto-baru-3900続いて、大浜地区にあるオヤケアカハチの像を見に行ってみよう。フルスト原遺跡のある丘の南東、大浜公民館と大浜小学校の間あたりにある。

furusuto-baru-3902かなりダイナミックな造形の、オヤケアカハチ像。

furusuto-baru-3903a-3905像の台座の裏側にはめこまれたオヤケアカハチ解説パネル。西暦1500年(日本は室町後期)、当時の石垣島に課せられていた琉球王府への年貢を拒否、島民解放に向け王府軍に抵抗した「アカハチの乱」の首謀者。当然姿形は残されていないが、人並み外れた大男、力持ち、髪は赤茶けて日本人離れした精悍な顔つきの若者、というイメージから、この姿になったという。地元の英雄像は、こうでなくては。

furusuto-baru-3904オヤケアカハチの像。

furusuto-baru-3906オヤケアカハチの像。奥に見える建物は大浜小学校。

furusuto-baru-3907オヤケアカハチの像。王府軍が来たぞー!

furusuto-baru-3926続いて石垣島南部(離島ターミナル付近)の史跡を幾つかご紹介。まずは江戸時代(琉球国)の頭領の居宅と庭園「宮良殿内」。「みやらどぬじぃ」あるいは「みやらどぅんち」と読む。何と現在も住まわれているという。旧琉球王府 重要文化財、現在は国重要文化財。門前の石壁はまるでパズルのように複雑な加工がされた巨石が組み合わせられている。

furusuto-baru-3930a-3949門を入った先は、奥が見えないように「中塀」が設置されている。沖縄の伝統的な屋敷構えでよく見られる構造。魔除け的な意味合いもあるだろうが、実際は開放的な構造の住宅が故に外部からの目隠し的な役割を果たしていたのだろう。城郭用語で言えば「蔀(しとみ)」。

furusuto-baru-3934宮良殿内 母屋。正面は実際に住まわれている方がいるので脇からのショットで。ちなみに住まわれている方は見学に際し宮良殿内の歴史や構造などの説明をしてくださった。沖縄本島では米軍の攻撃により首里氏族層の建物は悉く失われてしまったが、ここ石垣島は地上戦は無かったためこうした建物がそのまま残ったとのこと。

furusuto-baru-3939宮良殿内 母屋に掲げられていた説明板。建物は琉球様式だが、庭園は日本山水方式、とある。

furusuto-baru-3948庭園の手前に草木に隠れるようにして建っていた「名勝 宮良殿内庭園」の石碑。

furusuto-baru-3950a-3937こちらが宮良殿内 母屋の奥にある庭園。琉球石灰岩を使って枯山水を構築している。橋や石灯籠が見える。

furusuto-baru-3953宮良殿内 外周石垣。隅部が外側に向かって尖っている。沖縄本島の中城城で見られる石垣隅部と同じ形だ。

furusuto-baru-3940a宮良殿内で頂いたパンフレットと絵葉書。見学料200円也。

furusuto-baru-3960a-3985宮良殿内の近くにある桃林寺(とうりんじ)。薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言し、1614年(慶長19年)に創建されたという。

furusuto-baru-3975x2山門内に建つ阿吽の仁王像。県指定文化財。江戸中期、1737年作。

furusuto-baru-3979桃林寺 本堂。琉球の赤い瓦とお寺風の建物のコラボと言った印象。

furusuto-baru-3961桃林寺の境内にある、権現堂。こちらは何と国重要文化財。

石垣島と言えばリゾートのイメージだが、フルスト原遺跡やオヤケアカハチの像、宮良殿内などの歴史スポットも点在する。竹富島や西表島に渡る際に石垣島へ寄った時にも、ぜひ史跡スポットに寄ってみては。

訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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