中城城 (なかぐすくじょう) は沖縄本島中部の丘陵上に建てられた古琉球時代 (14〜17世紀) の城郭。白い琉球石灰岩の切石で築かれた美しい曲線を描く石垣が特徴的。かつて島内で3つの王朝が争った三山鼎立時代の名将「護佐丸盛春 (ごさまるもりはる)」が、15世紀中期に現在に残る連郭式の中城城を造り上げた。護佐丸の所属する中山は他勢力を滅ぼし琉球統一王朝となる。しかし城主護佐丸は勝連城主 阿麻和利 (あまわり) に謀反の疑いを掛けられ自害。その後 中城城は王府の番所、薩摩藩の役場、小学校等として扱われ、かのペリーも沖縄来訪時にその美しさに驚いたと言う記録が残る。時代により異なる三種の石垣が見られる。沖縄戦で役場は焼失するも石垣の被害は少なく、現在も全域に渡り美しい大石垣が残る。国史跡、100名城、世界遺産。
<基本データ>
●名称:中城城 (Wikipedia)
●所在:沖縄県中頭郡中城村 (地図)
●築主:護佐丸盛春
●築城:1440年頃
●遺構:石垣、城門、御嶽、墓地、曲輪
●資料:中城城跡公式HP、北中城村HP
<訪問記>
中城城跡 入口。バスだとバス停からかなり歩くことになるので、城跡から北へ3kmほど行った場所にあるホテルからタクシーで直行。沖縄グスク巡りは公共機関派にはなかなか厳しい。
入口を入ると世界遺産の看板などが建ち並ぶ。この正面にある小屋で入場券を購入。縦長のパンフも頂く。
中城城跡案内図。詳細な縄張図が載っているが、看板が通路から少し離れた斜面の上に建てられているので、細かいところが見辛い。実はパンフレットの内側にもっと見やすくモデル化された図面が載っているので、そちらを参考にしよう。
中城城跡パンフレットに掲載されている図面。上が南。現在は左側「管理事務所」前に居る。このまま進むと裏門から逆方向に観覧する形になる。やはりお城は正面から。ということで、図の下側を右側へ抜けている道を通って、西側(図の右端)の「南の郭」前の正門から入城しよう。ちなみに入口の近くにある墓所(護佐丸、伊壽留按司)は最後に訪れる。
城の北側を通って西側へ抜ける。左の丘の上が城跡なのだが、木々が生い茂っていて石垣は見えない。右側には低い石垣があり、その下は斜面となっている。このあたりも城の遺構なのか公園化された場所なのか等は不明。
どんどん奥へ。広場的なところが終わると「正門まで400m」という看板が出てきた。
ここから一気に城跡のある丘の上へあがる。道は舗装されている。なお真っ直ぐ進む道もあるが、この先には「中城高原ホテル」跡の廃墟が残ることもあり、立入禁止。
舗装された坂道を通って城跡のある丘の上へ。
坂を上がり切ると、視界右側の広場の奥に廃墟が見える。昭和30年代、当時の城跡管理団体が一之郭内に建てようとして琉球政府と揉めまくった(そりゃそうだ)挙句、場所を変えて城跡の真横に建てられた「中城高原ホテル」跡とのこと。ホテルは昭和50年の博覧会に合わせて建設が進められたが、なんと途中で建設企業が倒産、そのまま40年以上ここに放置されたままという。色々ヒドイ。
坂道をあがってきて正面の土塁の周囲には、かつてぐるっと周りを囲んでいたのだろうか、石垣の残骸とも言える石積みの一部が見えている。埋もれてしまったのか、失われたか。なおこの土塁の上は石垣で囲まれた主要城跡の外側ではあるが、城の西端を守る郭 (地図に郭名称の記載なし) となっている。「西端の郭」と仮に命名。
なお視界の左側を見ると、道が二本奥に伸びている。左側の道は車道で正門前まで行き、右側の森の中へ進む道は恐らく当時の正門への道、と思われる。このまま正門へ向かうと、先ほどの土塁の上の郭へ行かず石垣の中へ入ってしまうので、まずは土塁の上(仮称 西端の郭)にあがろう。
とても古そうな野面積みの石垣と、其の手前にひっそり建つ中城城跡の石碑。世界遺産に指定されたときのもののようだ。なお裏門側にはもっと巨大な世界遺産指定の石碑があった。
土塁の上、仮称 西端の郭へ。かなり広い削平地になっていて、前述の廃墟ホテルが一望(嬉しくない)。小山の上に骨組みだけのコンクリートがそびえているので、余計に目立つ。
西端の郭から南東の太平洋を望む。中城城跡は沖縄本島の細いウェストの東端に位置し、海までは約1.3kmほど。城跡から東南方面を見れば海がすぐ近くに見える。逆の西側を見ると、東シナ海までの間には広大な「普天間基地」がある。
西端の郭から城跡方面を見る。岩の塊を削ってこの郭を作ったのだろうか、平地の上にそそり立つように断崖が見える。その上が石垣が残る中城城跡メインエリアだ。
断崖の方に向かってみると、一部が大きくくり抜かれている。パンフレットによると「カンジャーガマ」と書いてある。
断崖の近くは崩れやすいからか立入禁止となっていて、ロープにそって移動すると、看板があった。「カンジャーガマ」とは「鍛冶屋跡」のことだった。かつて中城城主 護佐丸がここで武器を造らせた、のだろうか。
断崖の向かって左側に、正門方面へ抜ける脇道があった。わかりにくいが、ここの間を奥へ。
地面が岩場を削ったような場所になり、そのまま断崖に沿って右奥へ回り込むと、正門前へ出る。
右へ曲がった所。草木のトンネルの向こうに、石垣が見える!
中城城跡 正門前。石畳の道の左右には、四角く整形された美しい石垣がそびえ、その奥に正門がある。左前の石垣には縦長の銃眼も見える。
中城城跡 史跡碑。後ろの石垣は上部がやや崩れているようだ。以前はもっと高かったのだろうか。中城城が築かれたのは1440年と伝わる。本土で初めての総石垣の城郭と言われる安土城が1580年頃。その140年も前に、琉球王国では、既にこれだけの石垣技術が発展していた。ちなみに石材である「琉球石灰岩」はかなり柔らかく加工しやすいというのも石垣技術が大きく発展した理由の一つだろう。
正門へ。門を挟むように両側に石垣がせり出している。かなり正確に直方体な石材が積み上げられている。パンフレットには「正門(櫓門)」と書かれており、当時はこの石垣の上をまたぐように櫓が載せられていた、のかもしれない。
正門を越えて、内側から正門を見返す。正門という割には小さな狭い門だ。和式城郭の「大手門」的な敵を威圧云々よりも、防御力重視だったのだろうか。
正門の正面には更に高石垣。主郭に相当する「一の郭」の石垣で、そこには直接は辿りつけず、右側の階段の上にある「南の郭」あるいは高石垣の左側エリア(西の郭)を通って奥へ行った先にある「二の郭」経由でないと辿りつけない。ちなみに「西の郭」は工事中で立入禁止だった。高石垣を真下から見上げることが出来ず、残念。
西の郭の西端から、一の郭の西隅部を見上げる。和式城郭と異なり、隅部がことごとくカーブを描くように美しく積み上げてある。よく見ると下部のゴツゴツした野面積みと、上部の高石垣とは、まったく積み方が異なる。上が護佐丸時代、下がそれ以前、か。中城城は、護佐丸入城以前、14世紀には既に先中城按司 (さちなかぐすくあじ) と呼ばれる前任者たち数世代によって元となる城が築かれていたと言われる。
西の郭から南の郭へ向かう階段。石段を構成する石垣が古い野面積みタイプ。右側に小さく見える門が先ほど通ってきた「正門」。
石段を上がる。何故か右と左の二段構成。何故ずれているのだろうか、駅の階段みたいに上りと下りというわけでもあるまいし。
石段をあがったところから、南の郭の高石垣を見る。石垣の上部が崩れている。石垣の内部は、和式城郭とは異なり、すべて石で出来ている(和式城郭は内部は土塁で外周だけが石材)。
石段の上から、西の郭方面を見返す。やはり一の郭の高石垣の「そびえ」感がすごい。
南の郭 入口。
「南の郭」内部。西の郭とは一変、緑がいっぱいだ。
中城城内には「遥拝所」が合計8つ残る。そのうちの1つ、御當蔵火神(通称 首里遥拝所)。うとぅくらひぬかん、と読む。
「南の郭」から「一の郭」へ向かうルート。奥の高石垣の向こうが一の郭。その手前にも更に幾つかの遥拝所が残る。
拝むスペースらしき石で囲われた場所が手前にある遥拝所その2。「小城ノ御イベ」、通称 久高遥拝所。くーぐすくのおいべ、と読む。
奥の石畳の通路の脇にある石垣で囲まれた場所が、遥拝所その3「雨乞イノ御嶽」。あまごいのうたき、と読む。
南の郭から一の郭の高石垣を見上げる。パズルのように白い石が埋め込まれているのは、破損部分を補修したからか、当時からか。よく見ると下部は切込ハギだが、上部は丸い石がそのまま積み上げられているように見受けられる。
>> 中城城 [2/4] へ続く。<<
訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm / 8mm
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