鹿児島城 [2/2] 城跡の南側には薩摩藩ゆかりの銅像がズラリ

鹿児島城 訪問記 – 其ノ二(全二回)。
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[概要]
二之丸奥の駐車場より散策スタート。石垣と水堀以外は目立った遺構が残っていない、薩摩藩島津氏77万石の居城 鹿児島城(鶴丸城)跡。それでも美しく積み上げられた切込ハギ布積みの石垣や巨大な城門がかつてそびえていた御楼門跡などを見学。石垣と堀の周囲を一周し、本丸内を軽く見た後、薩摩藩ゆかりの銅像めぐりに出ます。


<訪問記>

本丸前、御楼門よりスタート。

kagoshima-4010石橋を渡って、御楼門が建っていた場所へ。巨大な枡形と食違い虎口が合体したような巨大さだ。

kagoshima-4011a-4016枡型の中に建つ「県指定史跡 鶴丸城跡」説明板。明治初期に撮られたという、本丸 御楼門・多聞櫓・角櫓の古写真は必見。城の外は完全に野っ原!右下の正面からの御楼門は、NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の際にCG再現された映像とのこと。あのドラマ以来、鹿賀丈史を見ると大久保利通に思えて仕方ない。

kagoshima-4011a-4020では御楼門の枡形虎口を形成する石垣を見ていこう。巨大な木造櫓門が燃えた際の高熱と、西南戦争で官軍の鉄砲や砲弾が打ち込まれたことによる石垣の変形が、随所で見られるという。まずは虎口入ってすぐ左側の石垣。元は平らだったと思われる石垣がボコボコになっている。古絵図によると、御楼門が石垣に隣接していたのはもう少し奥になる。

kagoshima-4011a-4023虎口を少し曲がったところの右手の石垣。ここも焼けた跡が見られる。この場所は御楼門より内側になるが、絵図には何か建物的な絵が描かれていて、それが焼けた時の熱で変形したのかもしれない。

kagoshima-4011b-4022虎口入ってすぐの右側の石垣。御楼門は手前側 三分の二ぐらいの面積に隣接していた。明治6年に火事で焼失。明治10年には西南戦争では薩軍の拠点となり、最終局面に官軍が攻撃。まだ現存していた二之丸はその際に炎上したと言われるが、本丸も銃撃を受けたのだろう、銃撃による「石垣の穴」が多く見られる。

kagoshima-4011c-4017御楼門は復元プロジェクトが進んでいる。そのためか、訪問時(2015.9)は発掘調査が大々的に行われており、ビニールシートや柵でよく見えない部分も多かった。それでも門柱の礎石はちゃんと見えるよう、避けて設置されていて、良かった。礎石と礎石の間にも、横長の石が埋め込まれているのが印象的。

kagoshima-4011c-4018御楼門 礎石。かなり大きめの石に、角を削る加工がされている。

kagoshima-4011c-4019通路の真ん中に埋められていた、一番大きな礎石。礎石の周囲に埋め込まれている菱型の石は御楼門時代のものなのかどうかは分からないが、雰囲気的に同じ時代のものだろうか。

kagoshima-4011d-4021御楼門を越えて、枡形正面の石垣。外から見た時の突き当りの石垣にあたるためか、砲弾によるものと思われる穴が多数あいていた。

kagoshima-4014枡形部分から本丸内へ伸びる、食違い虎口。結構な坂道になっているが、往時は左右に少し残る「石段」だったのだろうか。

kagoshima-4015食違い虎口部を正面から。正面奥が少し膨らんでいて、ただの食違い虎口というよりも、2つ目の枡形虎口といった様相。

kagoshima-40272番目の枡形から本丸の中を見る。よく見ると石垣が二段構成のようになっている。正面に見える建物は、歴史資料センター 黎明館。今回はこのまま本丸へは入らず、再度 水堀前に戻り、石垣の続きを見て行こう。本丸へは北側の門跡から入る(御楼門は東向き)。

kagoshima-4035御楼門前 石橋の外へ。

kagoshima-4036石垣・水堀に沿って、北へ向かう。

kagoshima-4037a-4034北東端を見る。あの角を、左へ。

kagoshima-4038本丸東側石垣。修復の跡らしき、雰囲気の異なる石垣が多数組み合わさった印象。よく見ると、結構な巨石も埋め込まれている。

kagoshima-4041s鹿児島城 本丸石垣の目玉の1つでもある、北東端へ。石垣の角が大きく凹んで築かれている。これは「鬼門除け」と言われる当時の慣習(風水ベース)で、南と東を陽、北と西を陰と考え、その陰陽の境目となる北東(鬼門)と南西(裏鬼門)が忌み嫌われた。鬼門除けの方法は建物等によって様々だが、ここ鹿児島城では石垣の隅を切り落としている。他にも、土塀を凹ませたり(京都御所)、城の北東方向に神社や寺を建てたり(赤穂城に対する赤穂八幡宮)などの鬼門除けの例がある。

kagoshima-4044s本丸北東から、鬼門除けと御楼門跡・石橋を見る。

kagoshima-4049鬼門除けの凹部、アップ。通常の隅部に比べ、算木積みをしないといけない凸部が倍、通常は無い凹部が1つ余計に出来るので、石工や石垣職人は大変だっただろう。逆に腕の見せどころ?

kagoshima-4051本丸石垣北面に沿って西へ。正面である東側と違って、角度もやや緩やかな印象。堀跡の突き当りに見える橋は北御門跡、ここでお堀が終わりではなく、橋の向こうも奥に掘と石垣が続いている。

kagoshima-4052よく見るとこちら側にも巨石が埋め込まれていた。縦横3−4倍ぐらいある、かなりの巨石だが、恐らく板状の「鏡石」だろう。

kagoshima-4054本丸北面の石垣。

kagoshima-4056本丸北面、北御門跡の西側の石垣。奥のほうは木々が生い茂っていて見えないが、山麓の斜面まで続いているのだろうか。

kagoshima-4056a-4053sこのまま道は、城の背後の城山(鶴丸山)を避けるように右に曲がる。歩道をまっすぐ進んだところあたりに見える遊歩道から歩いて城山へ上がることもできるが、かなりの長距離。山頂に駐車場もあるので、殆どの観光客は車で登っていることだろう。山城はやはり歩いて登りたいところだが、この道は戦後の遊歩道らしく、途中特に遺構等も見られないという話なので、らくらくと車で上って桜島の眺望と土塁(薩軍大本営跡)だけを見ても良いかもしれない。今回は時間の都合であがらない。

kagoshima-4057a-4055では本丸北面にある、北御門跡より本丸へ。東側の御楼門のような枡形にはなっておらず、そのまま石垣土橋をあがって入る。正面は黎明館。

kagoshima-4058本丸の中には幾つかの銅像があった。その中の1つ、篤姫(あつひめ)像。台座には落飾後の呼称「天璋院」が書かれている。篤姫は幕末の薩摩藩主 島津斉彬公の養女で、13代将軍 家定の正室だった人物。これは篤姫が主役の大河ドラマが放映されたことで建てられた銅像だろう。ちなみに作者は、全国で数々のリアルな戦国武将らの銅像を作成している中村晋也氏。今治城の藤堂高虎像(写真)、大坂城豊國神社の豊臣秀吉像(写真)、玉造神社の豊臣秀頼像(写真)など。

kagoshima-4060本丸内部はほぼコンクリート化され歴史資料センター黎明館が建っているが、一部の建物跡には遺構を示す場所が存在する。その1つ「麒麟の間」跡。礎石の跡につつじが植えられている。今回は見逃したが、その他「角櫓跡」の礎石も残る。

kagoshima-4062では二之丸から再度 外に出て、今度は石垣にそって南側に進んでみよう。遺構はあまり無いが、幾つか薩摩藩に関連する銅像が建っている。と言いつつ、まずは石碑から。二之丸の低い石垣に沿って南に進んでいくと、石垣の前に古そうな石碑を1つ発見。非常に読みづらいが「距鹿兒嶋縣廳貮丁貮拾九間」と書かれている。ここから鹿児島県庁まで2丁29間の距離です、という意味で、いわば昔の道案内碑だ。調べてみると明治40年建立の「里程元標(りていげんぴょう)」で、主な道路の交差点や役場前などに当時多く作られていた。奥に見える建物は美術館。ちなみに美術館前の入口は以前は二之丸御門があった場所とのこと。

kagoshima-4063a-4065更に南へ。二之丸跡の中央あたり、美術館の南側には小山が築かれており、その上に巨大な「西郷隆盛像」が建てられている。江戸城無血開城の実現など明治維新の最大立役者の1人だったが、新政府と意見が衝突し辞職して鹿児島へ帰郷、その後 旧士族の決起に担ぎあげられる形で日本最後の内乱である「西南戦争」を起こし、一時は熊本城まで攻め上がるも最後はここ鹿児島城(詰城跡)で敗死した。やはり鹿児島の有名人と言えば「西郷どん」。この銅像はあの忠犬ハチ公の銅像の作者が作ったという。

kagoshima-4064西郷隆盛像の前までは近寄れない。遠くから望遠で撮影する必要あり。なお築山の正面はT字路になっており、そのT字路の中央に、西郷どん(遠景)と一緒に写真を撮れるスペースがある。この写真は築山の真下から。

kagoshima-4069s更に南へ。二之丸の南端を西へ向かうと、道路の真ん中に巨大な石鳥居が見えてくる。幕末の薩摩藩主で、後に明治維新に繋がる薩摩の富国強兵化・近代化を推し進めた名君・島津斉彬公を祀る「照国神社(てるくにじんじゃ)」だ。それにしても巨大な鳥居。高さ 約20m、昭和16年建造の鉄筋コンクリート製(当時最大級)。

kagoshima-4069sa-4072石鳥居を内側から。逆光だったので多少見づらいが、裏側には昭和20年の米軍の無差別爆撃の際に付けられた跡の跡があるという。向かって右側、貫(ぬき)と呼ばれる左右の柱を連結する横柱(下側)の右端、右柱のすぐ右あたりに黒い丸が見える。この石鳥居には無差別爆撃の際の機銃跡が数多く残っていたが、時とともに修復されて消えていき、最後にこの位置の穴が残るも、それも平成19年の修理の際に埋められてしまった。戦争の記憶を残すため、穴のあった場所に黒い色を付けたという。

kagoshima-4070別格官幣社 照國神社 社号標。明治から戦後までの神社の等級を表す「別格官幣社」が彫られたままになっている。別格官幣社とは、国に貢献した忠臣や兵士を祀る神社に対し与えられた社格。他には靖国神社、東照宮(家康)、豊國神社(秀吉)、湊川神社(楠木正成)など。

kagoshima-4071「巨大な鳥居は、功績の象徴」という題名の説明板。島津斉彬公の功績が色々書かれているが、タイトルの「巨大な鳥居」については一切説明無し。

kagoshima-4073では照国神社にお参りしよう。入ってすぐの場所にある、変わった樹形に整えられた植樹。

kagoshima-4074s照国神社 山門。

kagoshima-4075s照国神社 拝殿。照国神社には島津家3代の銅像が立っており、それは拝殿前のこの広場の向かって右手前にある道から奥に行った先にある広場にある。

kagoshima-4077奥の広場へ。銅像はそれぞれバラバラに設置されている。まず最初に見えてきたのは、御祭神 島津斉彬公。

kagoshima-4078a-4080銅像の麓にある説明板。大正6年に斉彬公(11代藩主)と弟の久光公、養子の忠義公(12代[最終]藩主)の銅像が建てられた。

kagoshima-4079島津斉彬公 銅像。巨大な台座の上に建つ。台座には島津家家紋の「丸に十字」と、斉彬公が携わった偉業を彫刻した4枚のレリーフが埋め込まれている(世界視野[地球儀]、富国強兵[反射炉]、殖産興業[昇平丸と薩摩切子]、食の安定?[米俵])。

kagoshima-4082続いて奥の探勝園にある銅像へ。池の向こう側に作られた銅像は、斉彬公の弟 島津久光公。

kagoshima-4083島津久光公像 説明板。斉彬公の急死後、跡を継いだ若き主君(茂久→忠義)の後見として藩政の実権を握り、上洛、生麦事件、薩英戦争を経て、倒幕へ。維新後は新政府の急進的改革に反対し、距離を置く。西南戦争には協力せず中立を保ち、戦後は島津家の史書編纂に務めたという。

kagoshima-4085島津久光公像、正面から。

なお園内にはもう1つ、最後の藩主だった島津忠義公像もあるが、ここで時間切れ。1時間では到底ムリだった。明治の軍服姿という。

鹿児島城跡という位置付けでは遺構は石垣と堀しか残っていないが、御楼門の復元プロジェクトに加え、斉彬公の富国強兵で建造された集成館の遺構である反射炉跡など歴史遺産は数多く残り、城山ハイキングや西郷洞窟なども含め、1日かけてゆっくり市内を歩く方が適しているし楽しいと感じた。また改めて鹿児島歴史散歩に出かけたい。

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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