鹿児島城 [1/2] 二ノ丸から本丸へ数少ない貴重な遺構を見て回る

鹿児島城は、薩摩の戦国大名だった島津氏が、関ヶ原の合戦で敗北後に徳川氏の脅威に備え新たに築城した近代城郭。以後 江戸時代全期を通じて薩摩藩 島津氏の居城となった。天守や高石垣など巨大な建造物は無く、大藩(77万石)の居城としては例外的に簡素な造りは「人を持って城と成す」という藩思想に基づくとされる。ただし堅固な居城を築く代わりに、薩摩藩では領内に中世山城を多数残し、それぞれ藩士に守らせる「外城制(とじょうせい)」を採用していた。裏山に築かれた詰城(上山城)は元和の一国一城令で廃止され、その後は山麓平地の平城部だけが用いられた。明治になると陸軍の拠点(鎮西鎮台第二分営)となり、明治6年に本丸が焼失、明治10年には西南戦争の戦場となり、二ノ丸も全焼した。本丸大手門にあたる「御楼門」の復元プロジェクトが進んでいる。別名「鶴丸城」。

<基本データ>
●名称:鹿児島城 (Wikipedia)
●所在:鹿児島県鹿児島市 (マップ)
●築主:島津家久
●築城:慶長七年(1602)
●遺構:石垣、水堀、石橋、門跡 等

Links: 鹿児島城


<訪問記>

殆ど遺構が無いと言われる、しかも平地の城跡。次の予定も逼迫しているため、ここは散策に1時間を予定。果たして1時間で全て回れるか。では散策スタート。

kagoshima-3956二ノ丸跡に造られた駐車場より散策スタート。朝早い(9時)からか、殆ど車は居らず。奥の山の上が上山城跡。今回は未訪。歩いて上がることもできるが、山頂に駐車場があり車でも楽に行ける。土塁などの遺構が残るも、明治10年の西南戦争で上山城跡に薩摩軍(西郷軍)の大本営が置かれたため、その遺構である可能性も高い。

kagoshima-3956a-3962資料はこれ1つ。現地説明員の方が持参されていた本丸/二ノ丸 発掘調査時の図面。右側の堀で囲まれた場所が本丸跡。書院や御殿、奥などがあった。左側が二ノ丸。二ノ丸の奥が駐車場になっているが、古絵図を見るとかつてはここは二ノ丸ではなく1段高い場所になっていたようだ。なお本丸と二ノ丸の間の短い水堀は、今は埋め立てられており、図で言う本丸の下と右の水堀は現存する。駐車場から二ノ丸側へ、本丸との境目の水堀跡あたりに降りて本丸石垣を散策、そして二ノ丸虎口から道路へ出て、本丸を外から見ていくルートをたどる。右が北。

kagoshima-3957駐車場から見た、本丸土塁。土塁跡が残る。ここにはかつては石垣は築かれていなかったようだ。

kagoshima-3958駐車場から一段低い「二ノ丸」を見下ろす。左奥に伸びる石垣は本丸外周石垣。その下の土の部分は水堀跡だ。では下へ降りてみよう。

kagoshima-3961二ノ丸跡へ。今歩いている石垣下の土の部分はかつては水堀だった場所。本丸側からの排水のための樋跡が見える。

kagoshima-3964二ノ丸に面した、本丸石垣。美しく整形された石材をほぼ横一直線に目地を揃えて積み上げた「切込ハギ 布積み」と呼ばれる様式。排水口らしい樋跡や穴が見える。

kagoshima-3966二ノ丸から、本丸石垣とお堀に面した低い石垣。

kagoshima-3967二ノ丸は現在 図書館や博物館が建っている。

kagoshima-3968二ノ丸跡の中心部は上記の通り近代的な建物になっているが、道路に面した部分は土の地面が残り、石垣や説明板などがある。そちらを主に見て回ろう。

kagoshima-3970二ノ丸は本丸よりやや道路側に飛び出している。というか、本丸が水堀の分だけ凹んでいる、とも言える。その部分から本丸堀を見下ろす。ちなみに今居る場所は、本丸南側(本丸と二ノ丸の間)の水堀だった場所。石垣の上に土塀があったことを示すほぞ穴が開いているが苔むして少々分かりづらい。

kagoshima-3970a-3972二ノ丸から、本丸水堀を見渡す。堀の向こうに見える橋は本丸正門にあたる「御楼門」があった場所。本丸の北端はここからでは見えない。本丸の幅は約150mほどあるとか。

kagoshima-3971二ノ丸 東武。このあたりは緑が多く残っている。ただし遺構らしきもの(屋敷が建ち並んでいただろうからその礎石や塀跡など)は見当たらない。二ノ丸の屋敷群は西南戦争で官軍砲撃により全焼した。

kagoshima-3972a-3977s二ノ丸の緑の部分に建っていた「鶴丸城 二之丸跡」説明板。ガラスケースに収められているので、反射してどうしても自分が写ってしまうのが残念といえば残念。天保年間に描かれた城下絵図の本丸・二之丸部分がアップで掲載されている。また二之丸の左上(南西)にある巨大な建物は南泉院と呼ばれる郭で、幕末になって島津斉彬公を祀る「照国神社(てるくにじんじゃ)」が建造された。西南戦争、太平洋戦争で燃え、現在の社殿は三代目。

kagoshima-3976二之丸の樹木でひときわ目立つ大木。石垣の中から生えているようだ。斜めに生えているからか、倒れないように多くのワイヤーで吊るされている。この木の詳細は石垣側に記載されているので、後ほど前を通った時に見てみよう。

kagoshima-3978二之丸 現図書館前の入口は、お城が有った頃は「矢来御門(やらいごもん)」と呼ばれ、二之丸に2つあった城門の1つだった。もう1つは美術館前にあった「二之丸御門」。枡形にしては石垣が低いのは、改変されたからか、元々高石垣の無い鹿児島城ならではの低い枡形なのか、は不明。

kagoshima-3981s矢来御門より城下へ。二之丸石垣に沿って北上し、本丸を目指そう。この図書館入口の門柱は、二之丸跡地に明治34年に建てられた第七高等学校造士館時代のもの(先程の説明板に記載あり)。石垣の前に細い排水溝があるが当時からのものかはわからない。古絵図ベースでは二之丸前にはお堀は無かった。

kagoshima-3983s二之丸石垣。

kagoshima-3986先ほど内側から見た、石垣から生える大木。まるで巨大なタコのように根っこを石垣正面に這わせている。これはすごい迫力だ。首? に掛けてある説明板によると「アコウ」と呼ばれる、昔から防潮防風用に植えられた大木で、このように気根が伸びて他の樹木などに絡みつくのが特徴で、時には絡みついた「宿主」を絞め殺してしまうこともあるとか。ヒエ~

kagoshima-3986a-3984二之丸と本丸の境目。

kagoshima-3987境目を越えて、本丸側へ。石垣が凹み、そこに水堀が設けられている。水堀は現存。

kagoshima-3988水堀に沿って北上。本丸石垣は、本丸自体が二之丸より高く造られているため、やや高い石垣となっている。低い石垣しか無い鹿児島城だが、その中ではこれはかなりの高さに見える。

kagoshima-3992二之丸と本丸石垣の接合部。本丸が先に作られたことが分かる。

kagoshima-3994本丸石垣の一部が明らかに修復された跡があった。西南戦争で崩壊したか、太平洋戦争(鹿児島空襲)で崩壊したか。

kagoshima-3995お堀の前は畑?のような状態になっていた。植樹しているのだろうか。ガス燈風の街灯が異国情緒ただよう良い感じ。

kagoshima-3996a-4001本丸正門にあたる「御楼門」前へやってきた。現在は本丸に建てられている歴史資料センター「黎明館」の正門となっている。

kagoshima-3998「史跡 鶴丸城跡」の石碑。史跡碑は何故か本丸北門側にももう1つ新し目のものがあるようだが、そちらは見逃した。

kagoshima-4004御楼門 石橋。こちらは現存遺構、文化七年(1810)にそれまでの木橋から石橋に架け替えられた。欄干の擬宝珠(ぎぼし)も遺構。

kagoshima-4006橋の前にあった「薩摩は人をもって城となす」説明板。天守を持たない屋形づくり。

kagoshima-4007a-4032石橋を渡る。当時は、この正面左右の石垣をまたぐように、巨大な城門「御楼門」が建っており、高い建物の無い鹿児島城ではその城門が城の主役だったことだろう。

kagoshima-4008a-4030石橋の欄干に付けられた擬宝珠(ぎぼし)。今でこそあちこちで見られるこの擬宝珠は、当時は朝廷や幕府など権威の象徴であったとも言われ、これがここ鹿児島城の城門についているということは、島津家の権威の象徴でもあった、とも言われるそうだ(ガイド氏談)。

>> 鹿児島城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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