人吉城 [1/4] 人吉城名物、石垣がせり出した「武者返し」。

人吉城(ひとよしじょう)は、約700年に渡って人吉球磨(ひとよしくま)地区を治めた相良(さがら)氏が建てた近代城郭の跡地。鎌倉初期、源頼朝の命を受けた相良長頼が肥後の地頭に着任、地域を横断する球磨川沿いに築城したのが始まりとされる。本格的な城郭(山城)となったのは15世紀頃、現在残る総石垣造りとなったのは秀吉による九州統一後、天正17(1589)年の改修工事以降。城主相良氏は時代に応じて島津氏、豊臣氏、徳川氏と臣従先を変えながら、見事に鎌倉時代から江戸末期までその領地を守り切った。城の建物は度重なる火事で焼失、最後に再建された幕末の建造物群も明治初期の西南戦争でほぼ焼失してしまう。現在はいくつかの櫓や門・土塀などが再建されている。「武者返し」と呼ばれる石垣の上に落ちやすく並べられた飛び出た石材が有名である。

<基本データ>
●名称:人吉城 (Wikipedia)
●所在:熊本県人吉市 (マップ)
●築主:相良長頼
●築城:鎌倉時代初期 (1205年頃)
●遺構:石垣、土塁、水堀、復元櫓群

Link: 其の一, 其の二, 其の三, 其の四.


<訪問記>

広大な人吉城跡。まずは西曲輪内に建てられた「人吉城歴史館」前の駐車場から見学を始める。人吉城歴史館にあるパンフレットの図面を見ながら城内をめぐれば、見逃しが少ないのでオススメ。

hitoyoshi-3546人吉城歴史館 駐車場から城を一望。手前の芝生広場的な場所は「西曲輪」の一部。その奥に見える低い石垣の向こう側が城主の館跡で、その奥の森一帯が「お城」となる。写っていないが左側の道路沿いに「球磨川」が流れる。まずは川沿いの道をお城の方へ進み、城内から散策を始めよう。

hitoyoshi-3550道路を越えて、いきなり見えてくる長大な石垣。幕末に建てられた城主の屋敷(御館)跡の石垣だ。注目すべきは、石垣の上にズラッと敷かれた「せりだした石垣」だ。

hitoyoshi-3553御館石垣の上に築かれた「武者返し」、西洋のはね出し工法という構造を用いた、国内城郭では非常に例の少ない石垣で、和風城郭に用いられているのはここ人吉城だけだとか(他には五稜郭など)。防火目的に加え、石垣を登ってきた敵が居たら上の板状の石材を落とすという防衛目的の要素もある。

hitoyoshi-3557武者返し。下の打込ハギの石垣と比較して、隙間なくズラリと並んでいる。

hitoyoshi-3557a-3565「武者返し」説明パネル。元々は石垣の上には長櫓があったが、幕末の火災で焼失、その後は櫓再建の代わりに石垣を高くしてこの「武者返し」を採用したとか。他には品川台場、五稜郭、龍岡城と、ここ人吉城だけで見られるという。

hitoyoshi-3560a-3562「武者返し」が鈍角に折れ曲がっているところ。逆光だったので見づらいが、ちゃんと石材の角を削ってうまく曲がるように加工してあった。

hitoyoshi-3561御館石垣には排水口跡も残っていた。

hitoyoshi-3563史跡 人吉城跡 説明板。カンタンな歴史の説明と、江戸時代後期の姿を描いた地図が掲載されれている。人吉城内ではこのような石材にタイルを埋め込んだタイプの説明パネルがあちこちに設置されている。色あせて読めなくなる鉄板説明板に比べ、タイルは割れない限りずっと読めるので、ありがたい。

hitoyoshi-3564江戸時代後期(天保年間、1830−1844頃)に作成された絵図を参考に作った模型の写真に文字による説明を加えたもの。模型は歴史館の中にあるものだと思われるが、館内は写真NGで参考に出来ないので、この説明板を写真に撮っておこう。

hitoyoshi-3566a-3556武者返し石垣の正面、球磨川との間には細長い帯曲輪が延び、幾つかの建物が建っていたようだ。礎石群が並ぶ。ちなみに奥の土塀は復元。

hitoyoshi-3566b-3559「間米蔵」跡。礎石が整然と並んでいる。年貢米などを納めていたとか。明治初期の払い下げで解体。

hitoyoshi-3568a-3571その奥には土塀とともに球磨川へ続く立派な門跡が残る。「水ノ手門跡」。

hitoyoshi-3569a-3570「水ノ手門跡」説明板。球磨川沿いには石垣が積まれ、水運のため7箇所の船着場を築き、そのうち最大の規模だったのがここ「水の手門」だった。川の水量の増減にも対応できる構造だったとか。

hitoyoshi-3570a-3567なぜか水の手門跡には2つの説明パネルが置かれている。こちらは平成5年製、先ほどのは平成19年製。発掘調査が行われる前に造られた説明板のようで、19年のものに比べて、図面ベースの説明のみとなっている。土塀は川に向かって左側までで、右側からは石垣の上に竹林が造られていたようだ。コスト削減、竹(建築用材)の確保、など一石二鳥。

hitoyoshi-3571a-3568水の手門跡。門を経て低い河原へ出るため何段かの階段が門内・門外に造られていたようだ。その一部が今も残る。

hitoyoshi-3571b-3575s水の手門跡の向かい側あたりには、御舘の端っこに当たる部分に設けられた小さな門がある(建物は復元)。「堀合門(ほりあいもん)」。

hitoyoshi-3572堀合門。城主の館の裏口にあたる門で、西南戦争でも焼失を免れ、門そのものは移設され現存するという(今回は未訪問)。ここに建てられている門や土塀は平成19年に再建されたもの。

hitoyoshi-3573堀合門と御舘の石垣。「棟門」(むなもん)と呼ばれる、柱二本の上に巨大な屋根が乗るオーソドックスなタイプの門だ。

hitoyoshi-3578「堀合門」説明板。現存門や絵図の姿を元に外観復元された。

hitoyoshi-3580堀合門から中を覗く。右側が城主の館跡へ。左へ行けば二ノ丸の下部へと繋がる。今回は堀合門からではなく奥の「御下門」から入城するルートを取るので、ここからは入らず、また外曲輪へ戻る。

hitoyoshi-3582a-3577堀合門から更に奥ヘ進むと道の脇に「史跡 人吉城跡」の石碑あり。城跡碑がなんとも中途半端な場所にあるのが少し不思議。

hitoyoshi-3583城跡碑の奥には米蔵などがあった場所があるが、芝生の斜面のようになっている。パンフによるとここには「欠米蔵」「大村米御蔵」という米蔵が並んでいた模様。

hitoyoshi-3584道の左側、球磨川側には飛び出る形で細長い曲輪が形成されていた。中へ入ってみよう。

hitoyoshi-3586せり出すように造られた曲輪。曲輪の名前が付いているはずだが、説明パネルを見そこねた。

hitoyoshi-3593球磨川を隔てて、反対側に残る石垣を見る。

hitoyoshi-3594a-3600球磨川にせり出した部分の郭の下に築かれた石垣を横から見下ろす。見事な石垣の反り。

hitoyoshi-3595そして、御下門跡へ。城主や家臣らの登城時の正式な出入り口だったという。石垣しか残っていないが、それでもこの存在感。草木で見えないが、石段の右側にも同様の石垣(櫓門の土台)がある。じっくり見てみよう。

hitoyoshi-3596a-3604「御下門跡」説明パネル。川沿い(球磨川ではなく西側の胸川沿い)に築かれていた「大手門」と同じく、左右を石垣台で固めた櫓門。

hitoyoshi-3596b-3598御下門 向かって左側の石垣台。石垣は3段構成になっていて、一番下(古いタイプ)、櫓門が載っていた二段目(右端に少し見えている)そして一番高い正面のコレ。古絵図を見てもこの部分がよくわからず、この上に建物が建っていたのか等は不明。

hitoyoshi-3597御下門 石段下の正面から。成長して大きく石段の上に枝を延ばす右側の木を(枝だけでも)切ると、当時の御門の形が想像しやすくなる。

hitoyoshi-3605石段の途中から、御下門 石垣を見る。

hitoyoshi-3606御下門 櫓門台 石垣。

hitoyoshi-3609御下門 ちょうど門の真下あたり。城部は山なので門の向こうは石段が続く。

hitoyoshi-3610御下門 櫓門の建っていた場所の真下中央に置かれた、恐らく門扉を閉めた時に中央で止めるための石材。

hitoyoshi-3615御下門跡を石段の上から見下ろす。道のど真ん中に先ほどの「門扉を閉めた時に固定するため」の石材がどっかと居座っているのが分かる(実際は何のための石かは分からない)。

>> 人吉城 [2/4] へ続く。<<

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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