都之城 : 市の名前の由来になった城跡だが開発によりほぼ遺構消滅

都之城(みやこのしろ/みやこのじょう)は当地を治めていた北郷氏が室町初期(1375年)に築城した丘城で、複数の曲輪(それぞれ「◯◯城」と呼ばれる)を広範囲に配置した典型的な九州地区の中世城郭だった。神武天皇を祀る「都嶋」の地に築かれたため「都之城」と呼ばれ、幾つかの戦いを経験するも一度も落城しなかった堅固な城とされる。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、本郷氏は山麓の領主館へと移った。現在は本丸(資料館)・西ノ城(神社境内)以外のエリアは開発等によりほぼ消滅、本丸跡には模擬城門と模擬建造物が建てられ、当時の面影は堀切跡である資料館への道と、僅かながらに残る土塁程度しか見られない。

<基本データ>
●名称:都之城 (Wikipedia)
●所在:宮崎県都城市 (マップ)
●築主:本郷義久
●築城:天授元年(1375)
●遺構:堀切、土塁、虎口跡、門跡、模擬建造物群


<訪問記>

miyakonojo-3457本丸跡は「都城歴史資料館」が建ち(丘の上に見える建物)、丘一帯は「城山公園」として整備されている。こちらが城山公園入口。

miyakonojo-3457a-3530城山公園入口に建っているタイルパネル。当時の姿ではなく、現在の姿を記している。大手門という立派な城門が描かれているが、場所も姿も都之城とは関係のない想像の産物である「模擬建造物」。それより左に書かれた4つの教訓がいい感じ。

miyakonojo-3458では城山公園へ。正面に見える城門が何だか良い雰囲気を醸し出している。

miyakonojo-3467都之城跡 城山公園入口に建つ「城山大手門」。模擬だが、この迫力。デザインもなかなか良い(残念ながら当時は中世丘城の様相でこんな立派な石垣・白壁や櫓門は無かっただろう)。

miyakonojo-3473都之城 城山大手門。模擬だけど、この堂々たる城門っぷり。嫌いではない。石垣もかなりの巨石を使った打込ハギ。

miyakonojo-3480都之城 城山大手門。いいね。ちなみに門扉は無い模様。

miyakonojo-3481a-3489門の内側に「城山大手門」説明板あり。「脇戸附櫓門 単層櫓」という名前が付いている。樹齢300年の都城産の杉を使っており、瓦も都城産。礎石は御影石。町民が造り上げた街のシンボル。総工費 約1億円。資料館がガッカリデザインなのに比例し、この本気っぷりの大手門。いいね。

miyakonojo-3482大手門を入る前に、脇の駐車場を散策。犬之馬場、と書かれた石碑が埋まっていた。

miyakonojo-3484地元出身の旧海軍大臣、財部彪(たからべ・たけし)氏の銅像。ロンドン軍縮会議の調印者。その後職を辞し、学術振興に尽くしたという。

miyakonojo-3487海軍戦没者慰霊碑。勇者の魂を想う時 勇者ありて世の平和あることを忘れじと ここに心から感謝する。

miyakonojo-3488a-3532駐車場の周囲を見てみると、わずかながらに土塁らしき盛り上がりも見えた。

miyakonojo-3491では大手門を越えて本丸へ向かってみよう。この坂道を登る。この坂道は「堀切」跡で、右側が「西の城」、左側が「本丸」に当たる。

miyakonojo-3493都城(鶴丸城)跡 という標柱あり。本丸跡には都城歴史資料館が建つ。

miyakonojo-3494堀切跡の坂道を進むと本丸と西之城を渡る陸橋が見えてきた。あの向こうあたりに本丸への登り口がある。

miyakonojo-3495a-3526都之城本丸に設けられていたという虎口跡。分かりづらいが、左右に土塁があり、奥の土塁の脇に本丸へと続く入口があった模様。正直よくわからない。

miyakonojo-3497虎口跡脇に建つ「都之城 本丸虎口跡」説明板。虎口は上の写真のところではなく、階段の上と読み取ることも出来る(図中aの場所)。ちなみに上の写真の階段は虎口のあった場所を破壊して作ったコンクリート階段。

miyakonojo-3501s虎口を破壊して作った石段をあがって本丸上へ。入口の部分には細い木材で造られた頼りない門型の木組みと土塁、そして「本丸」と手書きされた木札。脱力。

miyakonojo-3502「門跡」説明板。この地下からは、当時の門跡と思われる柱穴が発掘されたという。細い木材で工作するより、柱穴跡を平面復元する方がよほど良いと思う。

miyakonojo-3504本丸跡に建つ、歴史総合資料館。横長の建物に、左右対称に大量に並べられた切妻破風。破風の中心部にはシンプルな梅鉢懸魚(彦根城と同じタイプ)。格子窓風のガラス窓に、教会風の丸型や台形の窓。なんというか、すごいデザインセンス。模擬というより、城郭風建造物。

miyakonojo-3504a-3511中身は写真NGだったので、ここまで。お城のことだけでなく、農具とか住民の生活に関する展示が多かった気もするが正直ほどんと印象に残っていない(写真NGだとこうなる)。文化財以外は写真OKにすべきだといつも感じる。

miyakonojo-3504b-3508本丸全景。庭園風になっている。本丸跡ということで、また1615年まで城が存続していたことからも建物跡や土塁跡などそれなりの遺構もあっただろう。

miyakonojo-3505都之城跡 説明板。本市地名の元となった由緒あるところである、が、この破壊改変っぷり。ここで見るべきは右側の縄張図。

miyakonojo-3506都之城跡縄張図。本丸・西之城だけでなく、周辺には多くの曲輪(◯◯城)が配置されていたようだ。本丸の奥には土塁跡を示す緑の色が塗ってある。

miyakonojo-3513資料館の奥に土塁を見に行く。樹の根元に僅かながらに土が盛り上がった場所があり、「土塁」と書かれた碑が埋められていた。うーん。横にコンクリート造りの坂道が設置された関係で破壊されたのだろうか。

miyakonojo-3514もっと奥へいくと、それなりに土塁跡とわかる盛り上がりが残った場所があった。土塁に沿って奥へ。

miyakonojo-3515一番奥まで行くと結構しっかりと土塁が残っていた。

miyakonojo-3516本丸奥、建物裏あたりには招魂碑や記念碑が立ち並ぶ。

miyakonojo-3517本丸裏からの眺望。丘の上に建っているので、城下が一望。先ほどの縄張図によると、この方向は曲輪がある方向ではない。

miyakonojo-3520本丸上から、本丸と西之城を区切る堀切を見下ろす。コンクリートで固められてしまっているが、本丸側に残る土塁の斜面が、当時の堀の規模や雰囲気を残す場所かもしれない。

miyakonojo-3522では陸橋を渡って西之城跡へ。現在は狭野神社(さのじんじゃ)となっている。神武天皇を祀る。

miyakonojo-3523狭野神社 石鳥居と拝殿。

miyakonojo-3524鳥居前にあった手書きの説明板「都島古蹟」。神社やお城の話ではなく、そのもっと前、神武天皇の頃の話。神武天皇はここ都島で産まれ育ったという話だが、狭野神社公式HPによると、この地に狭野神社が築かれたのは何と昭和17年。その他にも明治7年や1375年の都之城築城時などにも度々遷宮したと書かれている。ここは現在は狭野神社だが、元は都之城の西之城で、更にその前は神武天皇の宮居だった都島という場所だった、ということだろう。

miyakonojo-3531都之城跡。城跡としてはおおまかな地形程度しか残っておらず、特に本丸跡の改変ぶりや城郭風建造物には閉口。地元の方の浄財で築かれた立派な「城山大手門」が模擬とはいえ唯一まともなお城の雰囲気を出しているところかもしれない。都城市の名前の由来ともなった城跡がこの状況なことに何とも言えない残念な気持ちになった。

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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