高鍋城 [1/2] 上杉鷹山の出身地、日向高鍋藩庁のお城。

高鍋城は当初「財部城(たからべじょう)」と呼ばれ、地元の豪族 土持氏が築城、日向の戦国大名 伊東氏、薩摩の島津氏などの所領を経て、秀吉九州征伐の後に秋月氏に与えられた。以後 幕末までその秋月氏が治めた。現在の遺構は慶長12年(1607)以降に行われた改修工事以降のもので、城の名前も秋月氏時代に「高鍋城」と改められた。別名「舞鶴城」。維新後、城の建造物はそのまま高鍋県庁として利用されていたが、宮崎県へ統合された際に残念ながら全て撤去された。現在は「舞鶴公園」として整備され、城内には歴史総合資料館や舞鶴神社などがある。

<基本データ>
●名称:高鍋城 (Wikipedia)
●所在:宮崎県児湯郡高鍋町 (マップ)
●築主:秋月種長
●築城:慶長十二年(1607)
●遺構:石垣、土塁、堀、曲輪跡


<訪問記>

江戸時代、日向国(現在の宮崎県)には他国のような大藩は置かれず、幕府直轄領と幾つかの小藩、そして薩摩藩と人吉藩も領地を持つという、細かく分割された統治がなされていた。ここ高鍋城は、そんな「日向の小藩」の1つ「高鍋藩」の藩庁だった。小藩とは言え3万石を与えられており、陣屋ではなく城持ち大名だった。更に高鍋藩秋月氏6代城主の次男は米沢藩上杉氏の養子となり、後に「なせばなる」で有名な名君「上杉鷹山」となった。

では、そんな高鍋藩庁・高鍋城跡を訪ねてみよう。

takanabe-3100a-3240城跡は現在「舞鶴公園」として整備されている。こちらがその入口。舞鶴公園の看板と、舞鶴神社の社号標が建つ。

高鍋城跡案内図高鍋城跡案内図のコピーを頂いた。現在は「二ノ丸」と「三ノ丸」の間にある「岩坂御門跡」の前(下)に居る。

takanabe-3101a-3239岩坂御門前。打込ハギの立派な石垣が左右に積み上げられた、いかにもお城の正門的な場所だ。この上が「二の丸」で、現在は「舞鶴神社」境内となっている。

takanabe-3101b-3244二の丸石垣を見る。正面は切りそろえられた石材がビシっと積まれた立派な「打込ハギ布積み」な石垣だが、側面に回ると様相が違うようだ。奥へ行ってみよう。

takanabe-3101c-3245側面手前は表面だけ加工して隙間に石を詰めて整えた「打込ハギ」、更に奥は丸い石がそのままの「野面積み」だった。積まれた時代が異なるのか、はたまたコスト削減か。

takanabe-3102a-3236s岩坂門の石段を上がると、大きな門の礎石(ほぞ穴付き)が見える。穴の脇に外に向かって切り込みが入っているのが高鍋藩流(他の礎石でも同じ加工が見られた)。向こう側にも礎石が残っていた。その脇の小さな天守風模型は、お祭りなどで使うのだろうか。

takanabe-3161岩坂門を上がって二の丸へ。現在は舞鶴神社の境内となっている。まずはお参りしていこう。

takanabe-3162a-3160舞鶴神社 由緒書き。城内五箇所に建てられていた鎮護の神々を、廃藩置県後にこの地に舞鶴神社として合祀したという。元々の五社は、それぞれ菅原道真公や初代城主の土持氏、そして気になる「秋月家の遠祖 漢高祖 後漢霊帝」など、様々な対象を祀っている。

takanabe-3162b-3172石鳥居を越えて境内へ。

takanabe-3163a-3174舞鶴神社 拝殿。左右に古い石段が積まれており、奥にも行けるようだ。元々も何か建物があったのだろう。そちらへは後ほど。

takanabe-3164神社鳥居の前の大石段。この上がかつて藩庁(御殿)があった本丸となる。

takanabe-3166階段脇には「物見台 入口」と書かれた看板が立っていた。本丸の更に上の詰城部分に物見台とされる場所があるようだ。

takanabe-3168更に奥には古い石碑が立っていた。高鍋護国神社の社号標だ。本丸の向かって左奥、奥御殿跡に建っている。戊辰の役から大東亜戦争までの戦没者を祀る。今回は時間の関係で未訪問。

takanabe-3170さて石段を上がって本丸へ…と思ったら気になる看板を発見。よい子はここからのぼりません。えっじゃぁどこから登ればいいの?と一瞬思ったが、この看板の言う「ここ」とは石段ではなくその脇の土塁のことを指しているようだ。

takanabe-3175石段を見る。切り割った時の矢穴の跡が見られる。元々石段用だったのか、石垣などに使われていた石材を石段に再利用したのかは不明だが、古い石材であることは間違いない。

takanabe-3177本丸までの間に小さな曲輪が何段かあった。そのうちの一つに立派な石碑が建っていた。招魂碑と書かれている。

takanabe-3178脇に説明板あり。殉難招魂之碑。明治元年「戊辰の役」に際し、新政府から藩へ出征命令が下り、高鍋隊を北越東北へ派遣した。そこで戦没した者を悼んで明治7年に建てられたという。

takanabe-3180更に古い石段を上がって、いよいよ本丸へ。

takanabe-3181a-3233本丸の入口は虎口風になっている。当時は立派な門があったようだが、現在はこのとおりわかりづらくなっている。

takanabe-3185「長峰門跡」の標柱を発見。その脇には礎石も残るようだ。

takanabe-3188長峰門跡 石碑。四本の柱から成る巨大な門だったようで、現地では3つ確認できた。

takanabe-3191礎石の中央には穴が開けられ、そこから細い溝が設けられた、高鍋流な礎石。

takanabe-3193長峰門跡 標柱の側面にあった説明文。1678年に完成した二階建て櫓門(別名 矢倉門)で、ここから奥が本丸となる。

takanabe-3193a-3189長峰門前の奥にはまた一つの石碑あり。記念碑と書かれている。本文は漢文。

takanabe-3193b-3190脇の説明板によると、こちらは西南の役(西郷隆盛)の戦没者碑だった。西南の役で高鍋は西郷側に付いた。各地を転戦するも遂に降伏。この碑を建てた儒者は参戦反対派で、高鍋が当時は賛否で二派に分かれたものの、過ぎたことは水に流して語り合おうという郷土愛が刻まれている。

takanabe-3193c-3183では長峰門跡からいよいよ本丸へ入ろう。奥はかなり広いようだ。

takanabe-3194高鍋城 本丸跡。当時は政庁だった巨大な本丸御殿が建っていた。今は芝生公園。

takanabe-3195とはいえ本丸跡内には色々巨石などが転がっている。矢穴跡の残る四角く加工された石材。詳細不明だが、お城の遺構。

takanabe-3196芝生に隠れるようにして埋もれていた平らな石。御殿の礎石だろうか。

takanabe-3196a-3201本丸奥に建っていた碑。読みづらいが「外戦忠魂之碑」と読める。

takanabe-3197本丸にあった御殿の説明板「高鍋城本丸政庁・奥御殿跡」。本丸全体を覆うほどの巨大な建物が建っていたようだ。ちなみに奥御殿跡は現在 護国神社になっている。

Part2では山上の詰城跡、そして城下に残る堀跡などを巡ります。

>> 高鍋城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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