飫肥城 [1/3] 再建された大手門から巨大枡形へ。

飫肥城(おびじょう)は、日向国(宮崎県) 飫肥藩の藩庁だった近代城郭。藩主は伊東氏で、古くは室町時代に足利尊氏より日向国を与えられて以来、都於郡城(とのこおりじょう)を本城として勢力を拡大した。一時は飫肥城を含め国内48城を支配する日向国の覇者となったが、薩摩の戦国大名 島津氏との戦いに敗れ、日向国を追われる。その後は秀吉の家臣となり各地を転戦、九州平定での軍功により日向国を与えられ大名に返り咲いた。関ヶ原では東軍に付き所領安堵、その後は明治まで14代 280年間 伊東氏が日向国を治めた。城内の建物はすべて明治の初期に破壊されたものの、城内全般に壮大な石垣が現存し、大手門等が再建されている。

<基本データ>
●名称:飫肥城 (Wikipedia)
●所在:宮崎県日南市 (マップ)
●築主:土持氏 / 伊東祐兵
●築城:南北朝時代 / 天正十六年(1588)
●遺構:石垣、土塁、堀、復元城門等


<訪問記>

obijo-2882s案内所の建つ駐車場より散策スタート。

obijo-2888駐車場を出るとすぐに城門へと続く石垣と土塀の坂道。今は車を通すために坂道となっているが、当時は石段だった。当時の石段は今も地下に眠るという。

obijo-2891大手道の石垣をよく見ると、かなり美しく整形された上に、布積みでまるでレンガのように積み上げられている。右端にはかまぼこのようなカーブを描いた石材もあり。

obijo-2896飫肥城大手門へ。大手門までには左右に藩主邸などが残るが、それは城の後で訪問。

obijo-2897大手門前の堀にかかる橋の前には、飫肥城の立派な石碑。上には伊東家の家紋である「庵に木瓜」(いおりにもっこう。織田信長で有名な木瓜紋が家の中に描かれている)の紋が刻まれている。

obijo-2901大手門前に残る内堀跡。江戸時代も空堀だった(島津氏による築城当時からずっと空堀だったかどうかは不明)。堀の右側(白の外側)は「横馬場」と呼ばれる通り。城側の土塁はかなり高く積み上げられている。

obijo-2902a-3130横馬場から内堀にかけられた大手門橋を見る。石垣で補強された土橋だ。

obijo-2903a-3083橋の上から大手門を見る。昭和53年(1978年)に再建された。史実に基づいた復元ではない。

obijo-2904a-3117大手門前に立っていた、飫肥城と大手門の簡単な説明版。飫肥は元々は伊東氏の所領(本城ではない)だったが、戦国期に薩摩島津氏の所領となる。その後、秀吉の時代になって再度伊東氏の所領となった(今度は本城)。以後明治まで伊東氏の領土であった。飫肥城の顔ともいえる大手門は昭和53年造で、樹齢100年以上の飫肥杉を用い、くぎを一切用いない「組み式」と呼ばれる伝統工法によるものだが、江戸時代当時の姿での「復元」ではなく、他の現存城門などを参考にして学者が考えたデザインの「模擬外観」建造物。

obijo-2905a-3089大手門を越えると、立派な桝形へ。結構広い。

obijo-2905b-3080大手桝形内部より、大手門を見返す。

obijo-2905c-3079模擬デザインとはいえ、なかなかの佇まい。

obijo-2905d-3076大手門は明治4年頃まで現存していた。外観復元(当時と同じ姿での再建)に必要な設計図や古写真など、一切残っていなかったのだろうか?

obijo-2905e飫肥城 大手門 説明版。昭和の学者による設計監修の建物。工事中に礎石に刻まれた正徳三年(1713)の碑文が発見され、それが城門内に保存されているという。

obijo-2907a-3091こちらが大手門内部に保存された礎石碑。「追手御門臺石垣御門修復」と書かれており、普請・作事を担当した大工や奉行などの名が並ぶ。飫肥城は大地震で何度も倒壊しており、その都度修復してきた工事の1つだろう。

obijo-2907b-2904大手桝形より城内へ続く長い石段。歩きづらい微妙な角度と幅が築かれている。

obijo-2908a-3074大手桝形内側より桝形を見返す。桝形内を狙い定める鉄砲狭間付きの土塀がある。

obijo-2909a-3109大手桝形と石段・土塀の全景。

obijo-2909b-3107大手桝形を内側から全景。大手桝形の内部は四方すべてが鉄砲狭間付きの土塀で囲まれており、まさに入ると同時に一斉射撃を受ける「死の間」仕様。

obijo-2911大手桝形を出て正面の長大な石垣。不揃いだが切り込みはぎによる隙間のない石垣。上半分と下半分で石垣の汚れっぷりが大きく異なるのは、上半分が復元(昭和の整備時の積み直し)だからだろうか。

obijo-2913a-3104大手桝形を出て左へ。さらに奥へと続く登城路。

obijo-2914城内の城壁は石垣だが、外側の石垣は上半分が土塁になっているようだ。

obijo-2915a-2912下半分だけ石垣、上半分は急角度の土塁でできた、城壁。かなりの高さがある。

obijo-2917緩やかな石段を上って行く。すごく高い杉の木が二本生えている。

obijo-2919ここにも桝形がある。新本丸の正面にあたるため、本丸枡形とでも呼ぼう。桝形の入り口にあたる場所には、城門の跡の礎石が残る。地面は残念ながらコンクリートで固められてしまっている。

obijo-2924本丸桝形内部より、城内を見る。右側は歴史資料館、正面は本丸跡、現在は小学校。

obijo-2929a-3061桝形の内側は一段低い構造になっている。六段ほどの石段が全面に築かれていた。江戸時代の古絵図を見ると当時はここは既に新本丸の中(入口部)となっていた。つまり現小学校だけが新本丸跡ではなく、其の手前のこの部分も既に新本丸だった、ということだ。(参考:飫肥城館長ブログ

Part2では松尾丸および旧本丸を訪ねます。

>> 飫肥城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2015年9月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm / FISHEYE 8mm
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