日野城 : 大半がダム建設で失われた、蒲生氏郷の居城跡。

日野城は、信長・秀吉に仕えた名将 蒲生氏郷 (がもう うじさと) の最初の居城で、地名から中野城と呼ばれることもある。氏郷の祖父 定秀が築城、氏郷まで蒲生氏3代の居城だった。氏郷が伊勢松坂に転封となりしばらくして廃城となった。江戸時代は当地に仁正寺藩 (西大路藩) 陣屋が置かれ、明治時代まで存続したが、昭和中期に日野川ダム建設によって城跡の大部分が破壊された。現在は本丸北部の空堀や土塁の一部などが残るのみで、現地で見られる石垣は遺構ではなく神社のものと考えられている。城跡から少し離れた公園(ひばり野)に蒲生氏郷公の銅像がある。

日野城<基本データ>
●名称:日野城 (Wikipedia)
●所在:滋賀県蒲生郡 (マップ)
●築主:蒲生定秀 (氏郷の祖父)
●築城:文亀四年(1502) 〜 天文年間 (1532) 頃
●遺構:土塁、空堀、土橋、井戸跡 等


<訪問記>

hinojo-5215蒲生氏郷公の居城、日野城跡へ。「日野川ダム」あるいは「日野川ダム親水公園」を目指す。ダム湖の脇に「日野城趾 ←」の看板がある。矢印の示す方向、大きな看板がある方へ進む。

hinojo-5216中野城跡 説明板。かつては日野川の河岸段丘に存在していたが、日野川をせき止めて日野川ダムにしてしまった際に城域の大半が水没し失われた。蒲生3代の居城となった後、氏郷公が大出世で伊勢松坂に加増転封となり、その後しばらくして慶長年間頃に廃城となったものとされる。江戸時代は西大路藩の藩庁が置かれていた。現在残る遺構は、本丸北部の空堀・土橋・土塁の一部のみ。説明板にはダムに沈む前の姿を描いた図面と、現在の地図とが併記されているので、見比べてみよう。

hinojo-5217a-5245右のカラー図がダム前の姿。左の小さな白黒図が現在の姿。赤丸の1と2が同じ場所を示しているので比較すると、本丸の南部あたりから下がほぼ水没しているようだ。大手門付近の1(石碑がある)と、本丸中心部にあった2(井戸)、そして城の北東部の土塁上にあった2つの神社が現存。現在地は図の右上、本丸東側の帯曲輪あるいは堀切道風な場所の北端に居る。

hinojo-5218とりあえず残っているものを見に行こう。説明板の脇道から奥へ。

hinojo-5220本丸北側の土塁および、それを貫通する虎口へ。当時の遺構かどうかは不明だが、目立つ石垣は、お城があった時代および見た目(丸い川原石が垂直に積み上げられている)的に神社のものと思われる。

hinojo-5221a-5243土塁を貫通する堀切道?を経て、北側へ。

hinojo-5222うーん。微妙な雰囲気の石垣。

hinojo-5223土塁を越えて北側へ。土塁の上に築かれた神社へ続く石段の入口となっていた。

hinojo-5224その奥には、本丸を区切っていた堀の一部およびその堀を渡るための土橋が残る。

hinojo-5227土橋の上から本丸土塁を見返す。土橋にあがる階段側は全て石垣になっていたが、こちらも川原石をそのまま積み上げたような、お城らしからぬ石垣。その手前には最近建てられたものだろうか、新しい石碑が建っていた。

hinojo-5228土橋の上へ。左右を見ると、向かって左側は空堀となっていた。ヤブヤブ。脇にひっそりと「横堀」と書かれた看板が建っている。

hinojo-5229a-5233土橋の側面を見ると、こちらも石垣。神社境内への道の石垣とは様相が異なるが、詳細は不明。

hinojo-5229b-5234土橋を渡って本丸北側の曲輪へ。いろいろ看板が建っている。

hinojo-5231「中野城址」説明板。歴史的には日野城。廃城後は畑地となったが江戸初期に市橋氏による仁正寺藩(後に西大路藩と改名)の陣屋が置かれ、日野城跡はなんと庭園に利用したという。

hinojo-5232もう1つの大きな「中野城址」説明板。蒲生氏郷はこの城で生まれた。本能寺の変の際は、機転を利かせ、安土城に居た信長の妻妾一族をこの城へ避難させ、光秀に対抗する姿勢を取ったという(そして光秀は日野を攻める前に山崎にて敗死)。説明板の最後の表現からは、神社の石垣は仁正寺藩の陣屋時代のものとも読み取れる。

hinojo-5233a-5230本丸北側の曲輪全景。今は公園か。右側の石柱は「從是仁正寺領」。江戸時代の領地の境目を示す石碑だ。更にその奥に、仁正寺藩の陣屋跡が残るので見に行ってみよう。

hinojo-5236こちらが仁正寺藩(西大路藩)の陣屋跡。

hinojo-5237「西大路藩の藩庁跡」説明板。御殿と呼ばれていた藩庁は現在、京都相国寺に売却され、現地に残るという。

hinojo-5239陣屋跡の巨大な石碑には「藩主市橋家邸趾」。日野城の石碑より大きい。

hinojo-5240a-5212本丸北部エリアから、ダム側へ戻ってくる。かつて本丸が広がっていたエリアは、日野川ダム親水公園となっている。面影まったく無し。

hinojo-5240b-5213日野川ダム。蒲生氏郷公時代の遺構は、ダムに沈んだのではなく、ダムにするために破壊された。

hinojo-5240c-5210親水公園側から西を見ると、茶畑の奥に森が見える。古絵図と見比べると、茶畑部分は「空堀」、その奥のL字に折れ曲がった森は空堀のもう1つ外側の土塁跡と比定できる。この後土塁まで見に行ったがまったく未整備だった。

hinojo-5247周囲には「蒲生氏郷公産湯の井戸」と名付けられた、コンクリート枠付きの井戸が残る。この城で生まれたので、この城の本丸にあった井戸はきっと産湯として使っただろうという推定で、こう名付けられている。

hinojo-5250産湯井戸から更に西へ向かうと、ポツンと「中野城趾」の石碑が建つ。本丸跡や藩庁跡からも離れたこの地になぜ石碑? と疑問に思った場合は、石碑の裏を見よう。

hinojo-5251「從是西十歩大手門趾也以其石建之」。この場所から西へ10歩ほどの場所にかつて大手門が建っていたので、ここにこの石を建てました、ということのようだ。なるほど。

hinojo-5252西10歩というと、左側の茶畑の中あたりか。このあたりに、かつて、日野城の大手門があった。まったく面影なし。

では最後に、日野城跡から少し離れたところにある「ひばり野」と呼ばれる公園に建っている蒲生氏郷公の銅像を見に行ってみよう。

hinojo-5254a-5264このノボリが目印。蒲生氏郷公銅像。

hinojo-5255こちらの高台に設置された、鯰尾形兜を被った氏郷公。

hinojo-5257蒲生氏郷公。具足帯刀姿で、右手に筆、左手には書物と携帯型墨入れ。

hinojo-5259蒲生氏郷公。この角度が最もかっこ良い。

hinojo-5260蒲生氏郷公!後ろ姿も抜かり無し。

hinojo-5260a-5258蒲生氏郷公。

hinojo-5260b-5256銅像手前に設置された説明板。文字がかすれて全く読めない。作りっぱなしは良くない。

hinojo-5261銅像裏側に設置された沿革説明板。こちらはよく読める。大正時代に一度設置されたが、例の戦時供出にて一旦失われた。昭和63年になって再建。戦前の姿と同じかどうか等、詳細は不明。

hinojo-5262ひばり野公園内に建つ「蒲生氏郷公ゆかりの地」マップ。蒲生家に関連する支城などの場所が事細かに記載されている。

信長・秀吉に仕え、僅か1代で近江日野の小大名から会津若松91万石の大大名までに大出世を果たすも、僅か40歳の若さで病に倒れた蒲生氏郷。そのルーツとなった日野の地には、遺構はほとんど残っていないが、同じ場所に立って歴史を感じるのもまた一興。

訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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