石垣山城 [1/5] 山麓の早川駅から城址まで約2.3kmの車道を歩く

石垣山城は豊臣秀吉が北条氏との直接決戦に際し、北条氏の本城である小田原城を見下ろす西方の山上に築いた総石垣の陣城。小田原城は周囲5kmを高い土塁で囲んだ堅固な城で力攻めは難しく、秀吉は石垣山の築城時に一計を案じた。まず森林の中に櫓や塀の骨組みを作って紙を貼っただけのハリボテ城壁・櫓を建設。準備が整うと一晩で森林を伐採、小田原城から見るとあたかも一晩で城が現れたように見せ、敵の戦意を大いに喪失させたと伝わる。別名「石垣山一夜城」。城は4万人を動員し約80日で完成したとあり、城の完成後まもなく北条氏は降伏した。その後石垣山城は秀吉存命中は建設が続いたと思われるが没後は廃城となった。その後も遺構が良好に残っていたが大正の関東大震災で石垣が崩壊、現在はまるで「破城」にあったかのような崩落ぶりが見られる。現在は「石垣山一夜城歴史公園」として整備されている。

石垣山城<基本データ>
●名称:石垣山城 (Wikipedia)
●所在:神奈川県小田原市 (マップ)
●築主:豊臣秀吉
●築城:天正十八年(1590)
●遺構:石垣、虎口、土塁、井戸


<訪問記>

石垣山は2011年に有名スイーツ店(一夜城ヨロイヅカファーム)が出店し、今や多くの人が車で訪れる人気スポットとなった。山頂行きのバスも多く運行し、お菓子目当ての人も城目当ての人も自家用車かバスで上がるのが一般的だろう。

そこで、山麓の最寄り駅から徒歩であがることにした。山城は徒歩派の皆さんの参考になれば。

ishigakiyama-4843最寄り駅はJR小田原駅の一つ西の駅になる「早川駅」。小さなローカル駅だ。時間を図っておく。現在、13:30。

ishigakiyama-4845駅前の地図。右下の「現在地」が早川駅前。北西方向に見える山の上に、石垣山城跡が残る。主な登山道は2つあるようだが、今回は「参陣武将案内板」を見ながら登りたいので、Aルートをたどる。ちなみにAルートは車道で、お菓子を買いに行く車がバンバン通るので要注意だ。

ishigakiyama-4844ちなみに上の地図が載っている看板の下には、各ポイントまでの概算距離が書いてある。石垣山一夜城歴史公園まで2350m!という衝撃。しかも登山。がんばろう

ishigakiyama-4850早川駅から石垣山城へは、最初は住宅街の中を通って行くことになる。細かい道を右へ左へ曲がりながら進まないといけないが、このような案内板が各地に立っているので迷わない。

ishigakiyama-4851しばらく進むと道沿いに「海蔵寺」というお寺が現れる。石垣山城ゆかりの寺とのことで、せっかくなのでお参りしていこう。石段を上がる。

ishigakiyama-4852以前は丘の斜面に造られた立派な石段だったのだろうが、現在はこのとおりすぐ横まで住宅が迫っていて狭い印象。

ishigakiyama-4853「海蔵寺」。説明板によると、1441年(室町時代)の当時の小田原城主だった大森氏により建立、1590年の小田原合戦に有名な猛将・堀久太郎秀政がここ海蔵寺の陣中で病没した。墓は境内ではなく、向かって右側の高台の上にあった。

ishigakiyama-4855墓地はかなり広い。堀久太郎の墓はかなり奥の方の見晴らしの良い場所に作られていた。よくある「○○の墓 →」のような案内板は無いので、ゆっくり時間をかけて探そう。上の写真が目印。看板の右奥の宝篋印塔が、久太郎の墓碑と思われる。

ishigakiyama-4856「海蔵寺と堀秀政の墓」説明板。堀秀政(堀久太郎の呼び名の方が有名)は信長に古くから仕えた小姓で、29歳で長浜城主となるなどかなり有能でまた信頼されていた。信長死後は秀吉に仕え北之庄18万石の大名となるも、1590年の小田原攻めで包囲中に疫病にかかり、わずか38歳の若さで病死した。説明板によると、もし久太郎が存命していて、その後関東に配属されていたら、その後の徳川の天下となる歴史の流れは大きく変わったのではないかと言われるほどの人材であったという。合掌。

ishigakiyama-4861では海蔵寺の墓地から車道へ降りて、いよいよ登山開始。さっそく何やら看板が左手に見える。

ishigakiyama-4862「石垣山に参陣した武将たち」というシリーズ看板が、ここ海蔵寺前から、石垣山一夜城歴史公園前まで計8つ建てられている。まず最初は先ほど墓にお参りしたばかりの「堀秀政」。小田原攻めの先鋒として出陣、石垣山城の前衛として陣を敷いたそうだ。下のマップはよく見えるが、肝心の堀秀政の説明文が何故か大いに剥げていて読みづらい。立てたら立てっぱなしではなく、ちゃんと管理していただきたいものだ。久太郎も嘆いているかも。

ishigakiyama-4868sまだ登り始めではあるが、見晴らしの良い景色が続く。しばらく上がると景色が木々や建物などで見えなくなったので、見えるうちに見ておくべし。小田原城天守もよく見える(中央左側 1/4 あたり)。

ishigakiyama-4869a-IMG_0238といっても小さすぎて見えないので、ズームレンズで拡大撮影。ちょうどいいところが木で隠れている。ちなみに当時は現在の小田原城は北条氏後に城主となった大久保氏らによる築城で、当時(北条氏時代)の小田原城は北側の小山(八幡山)に主郭部があったとされる。

ishigakiyama-4874見晴らしの良い車道を歩いていると、2つ目の参陣武将看板を発見。

ishigakiyama-4875a-4873「石垣山に参陣した武将たち」その2、伊達政宗。なぜか3行目だけはっきり読めるものの、その他の部分はほぼ消えていてかなり読みづらい。政宗は秀吉の小田原攻めに豊臣方として参戦すべきか最後まで悩んでいたが、小田原包囲が始まると急ぎ東北から小田原まで駆けつけ、秀吉に服属した。

ishigakiyama-4877坂道はまだまだ続く。大きく曲がりくねった道は山の中腹へと続く。この先あたりから眺望が見えづらくなる。そしてカーブの大木の麓に、3つ目の看板を発見。

ishigakiyama-4878「石垣山に参陣した武将たち」その3、宇喜多秀家。これは大木麓の日陰にあるからか、比較的文字が判読できる。備前(岡山)の雄 宇喜多直家の子、秀家は、加賀前田家と姻戚関係となり、今や備前美作備中を治める50万石の大大名となっていた。小田原攻めの際は籠城中の北条氏房に酒肴を送り籠城の苦労を慰め、講和を勧めたとする話が伝えられているとか。しかし秀吉死後の秀家は運に恵まれず、お家騒動で歴代の重臣が離散、関ヶ原で西軍として戦うも小早川秀秋の裏切りで壊滅、その後改易、八丈島に流刑となり、そのまま島で生涯を終えた。

ishigakiyama-4881コンクリートの壁と坂道が延々と続く。眺望も見えなくなり、このあたりが一番しんどいあたり。石垣山一夜城歴史公園まであと1130mの看板を見て凹む。早川駅まで1310mとあるので、ここらで約半分。

ishigakiyama-4883大きなカーブを描いているところの麓に、4つ目の参陣武将看板を発見。

ishigakiyama-4884「石垣山に参陣した武将たち」その4、徳川家康。日陰にあるからか、今までで一番判読できる説明文だ。娘を北条氏に嫁がせていた関係で秀吉へ従うことを北条側にも勧めたが、小田原攻めが始まると先鋒として出陣した。その陣場跡近くには今も惣構の土塁跡が残る。

ishigakiyama-4886そして5つ目の看板へ。コンクリートの坂道が延々と続くだけなので他に見所が無い。この看板すらなければ心が折れかけるところだ。

ishigakiyama-4887「石垣山に参陣した武将たち」その5、羽柴秀次。秀吉の甥(姉の子)だった悲劇の関白。小田原攻めの頃はまだ関係が良かった。その後 秀吉の養子となった秀次は秀吉の跡を継いで関白となり(秀吉は太閤)天下を治めるも、秀吉に待望の実子 拾丸(後の秀頼)が生まれると次第に疎まれ、最後は謀反の罪を着せられた上に高野山へ蟄居、切腹処分となり、その後一族全員が京三条河原で斬首された。

ishigakiyama-4888このあたりまで登ってくると木々が生い茂り、高さは十分だが眺望としてはあまりよくなくなる。

ishigakiyama-4889まだまだ延々と続くコンクリートの坂道。修行。

ishigakiyama-4890特に何もないところにポツンと立っている、6番目の看板。

ishigakiyama-4891「石垣山に参陣した武将たち」その6、千利休。武将じゃなくて茶人だ。小田原攻めでは完成した石垣山城の茶室に呼ばれ茶会を開くなど、戦地の苦労を慰めた。質素シンプルな侘茶(わびちゃ)で使われる「竹の花生け」は利休が石垣山城で即席でこしらえたことが始まりと言われるそうだ。

ishigakiyama-4894心なしか坂道も角度を増してきた気もする。7番目の看板を発見。

ishigakiyama-4895「石垣山に参陣した武将たち」その7、淀殿。もはや歴史上の著名人というくくりだ。浅井三姉妹長女の茶々は、実父 浅井長政、義父 柴田勝家をともに秀吉に滅ぼされているにも関わらず、秀吉の側室となり、浅井の血を世に残そうと奮闘した。淀殿の呼び名は、秀頼を産んだ後に京都の淀城(淀古城)を与えられそこに住んでいたことから。石垣山城に残る井戸曲輪の井戸は、別名「淀殿化粧の井戸」と呼ばれているとか。

ishigakiyama-4896淀殿の看板を越えると、右側に何やら石垣が見えてくる。

ishigakiyama-4898石垣の上には「石積見本 野面積み」と書かれた看板。どうやら地元の石材店の商品サンプル展示のようだ。

ishigakiyama-4900そしてバスやら車やらが見えてきていよいよ城址到着という雰囲気が出てきた頃、最後(8番目)の武将看板がある。

ishigakiyama-4901「石垣山に参陣した武将たち」その8、豊臣秀吉。さすが関白の貫禄か、文字はまったく消えておらず非常に読みやすい。小田原攻めが豊臣政権最後の国内での戦いというわけではないが(大規模な一揆・反乱等があった)実質は小田原攻めで伊達氏・最上氏・津軽氏など東北諸氏が秀吉に服属し、この戦いをもって秀吉の天下統一は成ったとするのが一般的だといえる。

そして城跡の入口へ到達。時間は現在 14:20。駅から城址入口まで約50分かかったことになる(途中眺望の写真撮ったり海蔵寺に寄ったりしていたが)。

Part2からは城跡を見ます。

>> 石垣山城 [2/5] へ続く。<<

訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm + FISHEYE 8mm
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