吉野ヶ里 [1/3] 約1800年前のお城? 壕と柵に守られた弥生時代のムラ。

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は佐賀県に残る弥生時代の環壕集落遺構。広大なムラ(クニ)の周りを柵や空堀で囲み、各所に物見櫓や櫓門を配置するという防御施設を備えている。日本最大級の弥生時代遺構であり、堅固な防衛施設の存在から日本式城郭の初期段階とする意見もあり、日本100名城にも選定された(No.88)。昭和50年代から始まった発掘調査の結果に基づき、「国営吉野ヶ里歴史公園」として国と県が共同で当時の状況をリアルに復元している。弥生時代の最先端な生活環境を実体験できる、まさに「ヤヨイーランド」。ちなみに公式のキャッチフレーズは「弥生人の声が聞こえる」。当サイトでは100名城の1つという位置づけで城ファンの視点から紹介します。

<基本データ>
●名称: 吉野ヶ里遺跡 (Wikipedia)
●所在: 佐賀県神埼郡 (マップ)
●築主: 弥生時代の人々
●築城: 3世紀頃
●遺構: 復元環壕・祭殿・櫓・柵・墳丘墓 等
●情報: 日本100名城 No.88 (一覧)


<訪問記>

「日本100名城」の88番目に指定されている佐賀県の環壕集落跡、吉野ヶ里遺跡。日本100名城は巷で言われている通り、市民(観光客・お城ファン)目線での「日本の名城ベスト100」ではなく、政治的・学術的な思惑が多く含まれたリストだ。自治体にとって訪れて欲しいところ、学者にとって研究対象として外せないところ、が多分に含まれている。また各都道府県ごとに1〜5城を選定という縛りもある。そんなことから一般的に見て全くお城じゃないこの吉野ヶ里遺跡も日本100名城に含まれたのだ、と思って半ばスタンプ目当てで現地を訪れた。

それが、いい意味で、裏切られた。お城や日本の歴史に少しでも興味があるなら、ここは絶対に行く価値アリ!と言っても過言ではない。と前置きしてスタート。

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ここが吉野ヶ里歴史公園の入口となるアーチゲート。実に弥生時代らしさが欠片も無い近未来的なデザイン。なぜこれにしたのか。

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歴史公園マップ。かなり広大なエリアが整備されているようだ。広さは約85ヘクタールということだが、ピンと来ないので、東京ドームの個数に変換するサービスを使ってみると、約18個分だそうだ。現在地は、このマップの右下の駐車場から左の広大な園内へ向かうところ(橋の手前)あたりにいる。料金所のアーチゲートの先は川をまたぐ橋が架かっている。

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吉野ケ里歴史公園のゆるキャラ。名前を書いてなくて不明だったが、弥生時代をテーマにしているのでヤヨイちゃんかな?と思ったら、ヒミカくん (しかも男) でした。広大な歴史公園がまたがる3つの自治体の頭文字を組み合わせたものだとか。ちなみに髪が紫のヤヨイちゃんも存在するらしい。参考

ちなみに弥生時代っていつ頃だっけ?と中学校で学んで以来スッカリ忘れている人も多い(筆者含む)だろうから、簡単におさらい。
[日本の歴史](参考: Wikipediaなど)
・〜前3世紀 縄文時代(土器・竪穴住居・貝塚)
・前3〜3世紀 弥生時代(稲作・邪馬台国・卑弥呼)←ココ
・3〜7世紀頃 古墳時代(大和朝廷・前方後円墳)
・592年-710年 飛鳥時代(聖徳太子・推古天皇・大化の改新)
・710年-794年 奈良時代(平城京・万葉集・東大寺)
・794年-1185年 平安時代(平安京・源平合戦・藤原氏)

これ以降は武家政権(幕府)になるので城ファンの皆さんはよくご存知の通り。ちなみにこの時代分類はかなりザックリなので試験用にはきちんと覚えよう。というか試験勉強にWikipediaを使うのはやめましょう(間違いも多い)。

ということで、弥生時代は今から約2300年〜1700年ほど前、日本人が稲作を始めて稲作に適した場所に人が集まってムラが出来てムラ内に身分差が生まれてムラ同士の争いが生じて環壕集落で自衛してた、そんな時代。卑弥呼率いる邪馬台国のようなクニ (ムラの集まり) が乱立し争いが絶えず、やがて大和朝廷が日本統一し平安が訪れるまでの間、吉野ヶ里のような堅固な防衛設備を持つ環壕集落が多く造られた(そして大和朝廷の時代、環壕集落は不要となり破棄された)。

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駐車場から公園入口へ向かう途中の大きな橋の上から遠くを見ると、それらしい建物(物見櫓?)が見えている。

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中に入ると、もう其処は弥生時代。ご案内所もスタッフもこのとおり。いいね。

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広大すぎて分かりづらかったので、現在地を大きなマップで再確認。右が北。巨大な環壕の中に入ろうとしているところで、中には更に堀に囲まれたミニ環濠が幾つかあるようだ。ちなみにこのマップの更に右側(北)にも墳丘墓群などが広がる。主な見どころは「南内郭」「北内郭」「北墳丘墓」だ。

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園内にはこのような説明パネルが随所に設置されている。「弥生時代と吉野ヶ里」。当時の人達は当然「いまは弥生時代」「昨日で弥生時代が終わった」とかいう認識はなく、昭和になってから学者が名付けた時代区分に過ぎない。一応始まりとしては「稲作の開始」「土器の変化(東京の弥生というところで始めて見つかったので弥生時代と命名)」とされたが、現在はそれから更に研究が進み、稲作ももっと前からあったようだし、由来となった「弥生式土器」もその前の縄文式土器との区別がそもそも不明瞭で、正直何をもって弥生時代の始まりとすべきかが良くわからなくなっているらしい。ザックリと覚えるなら「狩猟ベースの縄文時代」「稲作ベースの弥生時代」という感じでOKかと。

そしてここ吉野ヶ里で発見された遺構は弥生時代末期、3世紀頃のものと推定されている。その頃の日本は邪馬台国や卑弥呼、中国では三国志の時代だ。ちなみに邪馬台国は当時の中国(魏)に貢物をした記録が向こうに残っているので著名だが、実際は当時多く乱立していたクニの1つだっただろうとされている。そしてその場所もここ北九州か畿内かで意見が分かれ決着していない。その後クニを平定した「大和朝廷」は畿内(飛鳥地域)ベースであることは判明している。

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さて先へ進もう。弥生時代の格好をしたスタッフが道案内をしている。奥に丸太の柵が見えてきた。いよいよあの奥が「環壕集落」になる。環壕の名の通り、柵だけでなく壕(堀)が周りに巡らされているはずだ。

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吉野ヶ里 環壕集落の入口。中は二重になっており、ここはいわゆる「外堀」にあたる。何やら文様が入った中国みたいな旗が掲げられているが、何かは不明。

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そして橋の上へ。おおっ、柵の前をぐるっと空堀が囲んでいる!堀底や斜面は固められてはいるが、逆にしっかりと当時の深さ・広さを感じられる。これは確かに簡単には攻め落とせそうに無い。

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反対側も柵と堀がグルリ。そして左側には木を尖らせて逆さに立てた、いわゆる「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる防衛設備も設置されている。

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逆茂木をアップで。大軍が進軍するには通りづらいし、上が尖っているので倒れたら刺さる(刺さるためにはもう少し低かったかも?)

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逆茂木の説明板。稲作伝来によりそれまで平和に暮らしていた日本人たちの間でも肥沃な土地・豊富な水の奪い合いが発生、それを他者から守るため、各集落はこうして自衛設備を整えていくことになったという。尖った木の枝や幹を挿していたと思われる穴が多数見つかったようだ。こんな穴が残っているのもすごい。

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柵を越えて奥へ。広いので迷いそうだが、あちこちにこんな指示板があるので意外と迷わない。この先は環壕の中のミニ環壕、南内郭へ。

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旗のたもとにはワラで編まれたイノシシ親子。

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そして目の前には更に柵に囲まれ、中に何やら櫓群が見える場所が見えてきた。あの中が「南内郭」になる。

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「南の守り」説明板。南内郭の南側には2箇所の入口(正門と脇門)があり、正門は何と櫓門になっているという!

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こちらがその正門(右の櫓門)と脇門(左の通路)。

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南内郭正門「櫓門」説明板。盾を持った兵士が常時 上と下で門番をしていたそうだ。なお櫓門の上にも登れたようだが階段を見落として登らず。

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では南内郭 脇門から入場。普段からここも開けっ放しだったら意味ないので、普段は扉か岩か何かでがっちり封鎖してて、大軍の移動時とか何かの際だけここを使う感じだったのだろうか。

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南内郭には、中世や近代城郭とは逆に、曲輪の内側に堀がある。これだと攻めるために柵を乗り越えてきた敵がいきなり堀にハマって、そこを集中攻撃、という方法になる。また外から見た敵が堀の存在に気づかないという利点もあるか。

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南内郭の外側から再度 遠景で。三階建相当の物見櫓が二棟建っている。攻め手はあそこから見張られ、柵を越えようとすると矢や石が飛んできて、やっとの思いで柵を超えたら深い堀にハマる。これは厳しい。

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南内郭 説明板。吉野ヶ里の「クニ」の「大人 (タイジン、えらい人)」たちの住居兼職場(政庁)だったとのこと。

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柵と、堀と、物見櫓。こういう位置関係。ちなみに櫓群は、はしごや階段があって登ってもいいところと、外されてて登れないところがある。

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南内郭は結構広い。広さが分かるような構図で1枚。建物群は周辺部に建てられていて、中心部には何もない。これは復元したのが周辺部だけなのか、そもそも中央部には遺構が無かったのかは、不明。

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南内郭の一角にあった家。「大人の家」と書いてある。タイジン。地面に穴を掘ってその上に屋根を載せる、古いタイプの「竪穴式住居」だ。ちょっと大雨が降ると、すぐに家中が水浸しになること必至・・・。この時代「高床式」の建物は儀式用の祭殿だったり貯蔵庫だったりに使われていたようだ。

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大人の家 内部の様子。住人がそろって何か作業をしているシーンが再現されている。盾や弓が並んでいるので妻たちが内職で武器を作っているのだろうか。

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他に南内郭では「弥生人コスプレコーナー」もある。「弥生人になって写真を撮ろう!」もちろん無料です。服の上から羽織る形でスタッフさんたちのような服装になって、手には武器や農耕具を持ち、好きなポーズをとって、手持ちのデジカメ等で撮影してくれます。私はここで年賀状用の写真を撮らせて頂きました。一見恥ずかしいけど、そうそう弥生人になれる機会は無いので、ぜひ。

>> 吉野ヶ里 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm + FISYEYE 8mm
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