佐賀城は、佐賀藩祖 鍋島直茂が江戸初期に建てた近代城郭。鍋島家が元々仕えていた戦国期北九州の覇者 龍造寺氏が島津氏らとの戦いに敗れ衰退すると、秀吉・家康に近づき実権を内外ともに掌握した。そして龍造寺氏の本城だった佐賀龍造寺城(村中城)を大幅改修し、四層五階の天守と御殿、巨大水堀を持つ近代城郭 佐賀城を造り上げた。しかし度重なる火災や幕末戦乱等で本丸御殿の極一部と鯱ノ門を除く殆どの建造物を焼失した。平成になって幕末に再建された本丸御殿の復元工事が行われ、大規模に復元されている。
<基本データ>
●名称: 佐賀城 (Wikipedia)
●所在: 佐賀県佐賀市 (マップ)
●築主: 鍋島直茂
●築城: 慶長十六年(1611)
●遺構: 本丸御殿(復元)、鯱ノ門(現存)、石垣、土塁、水堀
●情報: 日本100名城 No.89 (一覧)
<訪問記>
どよーんとした天気の中、鍋島氏の居城 佐賀城へ。佐賀城は本丸内が佐賀城公園として整備されている。正面に見える櫓は、佐賀城本丸の正面入口にあたる「鯱ノ門」(の横に繋がっている続櫓)。幕末期に再建された門がそのまま残る、現存建造物だ。なお佐賀城付近にはかつて幅80mを誇った巨大水堀も多く残されているが、今回は未訪問。
佐賀城 鯱ノ門前へ。今歩いているところは江戸期の古絵図でも道になっているが、石垣の左側は本丸堀だった。今は埋め立てられ道路になっている。
佐賀城 鯱ノ門(正面)および続櫓(左側の櫓)。ともに幕末天保年間の大火の後に、10代藩主 鍋島直正が再建した本丸建造物の1つ。天保九年(1838) 完成、現存、国重要文化財。
鯱ノ門の前には城跡碑が建つ。復元本丸御殿でやっている展示内容のポスターなどが並んでいる。
戦前の史蹟碑。史蹟 佐賀城址城門。
鯱ノ門前にあった古い説明板。本丸は巨大な水堀に囲まれた佐賀城の南東部(図の右下)にあたる。城を取り囲む水堀の広さがよく分かる図だ。
では鯱ノ門から本丸へ向かおう。鯱ノ門の城門および柱などは青銅板で隅部などが補強されている。その名の通り立派な鯱(しゃち)が屋根の上に鎮座している。
鯱ノ門を通過中。巨大な櫓門を支える石垣の内側が見える。こちら側は外と違って雨ざらしではないので比較的綺麗なまま残っている。
鯱ノ門を本丸側から見返す。番所的な建物も付属している。ここから櫓門の中に入るのだろうか。門の内部は非公開だった。
鯱ノ門の鯱。瓦ではなく、銅版を貼り付けて細かく加工している。
鯱ノ門を角度を変えて内側からもう1枚。本丸の正門に相応しい堂々とした姿。
本丸の中へ。本丸内部には、幕末期に再建された本丸御殿(一部を除き明治期に取り壊された)を、発掘調査結果や古写真・古絵図等々を参考に木造復元した「佐賀城本丸歴史館」が建っている。
本丸御殿の正面もカッコイイが、正面向かって右側の勝手口?的な場所もなかなか。しかし入場はもちろん正面から。なおこの本丸御殿の正面向かって右側の道を奥へ進むと天守台の脇を通って本丸の外側へ出る西門へ到達する。そちらへは、後ほど。
では本丸御殿の中へ入ってみよう。何と入場料は「募金」となっていて、今後の維持管理のために訪問者の満足度に応じた自由金額を納めて下さいとのことだった。新しいが、このスタイルだと正直お金があまり集まらないと聞くが、如何に。
入口の前にアームストロング砲の模型が展示されていた。幕末の佐賀藩では積極的に西洋技術の導入・開発を行い、実際に当時イギリスで発明されたばかりの「アームストロング砲」の製造に成功したという話もある。現物は戦時の金属供出により失われてしまい不明。展示されているのは9ポンドタイプで、佐賀藩で開発したと伝わるものはもう1つ小さい6ポンドタイプ。
では館内へ。結構広い。入口は図の右下(紫の表の真上あたり)で、紫色に塗られている場所は展示コーナーとなっている。唯一現存していた「御座所」は一番奥(図の右上)。右上の写真は本丸御殿を再建した十代藩主 鍋島直正公。
復元 本丸御殿の内部。
本丸御殿の中から、天守台方面を見る。江戸中期頃の火災で焼失するまで、正面の石垣の上には四層の天守がそびえていた。
本丸御殿内 展示コーナー。外観および位置を正確に復元しているが、内装は蛍光灯を埋め込んでいたり、部屋によっては絨毯を敷いていたりと、史実どおりではない。それはこの建物の正式名称が「佐賀城本丸歴史館」となっていることからも伺える。
「御料理間」の中は、完全に博物館仕様。いわゆる現在の旅館の宴会場のような位置づけの部屋なので、畳敷きだが、畳の上にこんな大きな什器はおけないので、これはこれで潔い割り切り方だろう。
では少し展示内容を御紹介。地面の下に眠る「遺構」も立派な展示物。床が一部透明パネルになっていて、礎石が見られる場所があった。上部の礎石は「佐賀城本丸歴史館」の礎石。その下に分厚いコンクリートを敷き、更にその下に発掘調査で出土した幕末期の本丸御殿の礎石がこのとおり傷つかないように保存されています、という説明のためのものだ。柱の位置も出土した礎石の真上に設置するなど、基本構造は復元となっている。
また地面だけでなく天井裏の梁なども見えるように透明パネル化されている場所もある。
現在の佐賀城本丸のジオラマ。
佐賀城本丸御殿の鬼瓦(現物)。中央には、鍋島氏の家紋「杏葉(ぎょうよう)」の複雑な形が刻まれている。
表の説明板にも掲載されていた、佐賀城古絵図のアップ。築城時のもので、右下の本丸内には四層の天守が描かれている、が、本丸御殿と重なってしまっていて見づらい。二ノ丸側から本丸へ入る細い橋のすぐ右側に描かれている、細長い建物が天守。
展示コーナーは以上にして、本丸御殿を見て回ろう。上記の通り、部屋の内部は比較的「博物館風」になっているため、本丸御殿の雰囲気を味わうには廊下が良い。廊下とはいえ畳が敷き詰められているので廊下感は無い。
本丸御殿内を奥へ。外を見ると、復元されていない場所は、石で部屋割りが平面復元されていた。御殿の裏側にも後ほど訪れてみよう。
本丸御殿の一番奥にある建物が、唯一の現存(城の近くに移築保存されていた)である「御座間・堪忍所」である。廊下が繋がっていて、そこまで行く事ができる。
「御座間・堪忍所」説明板。御殿時代は藩主 鍋島直正の居間として使われ、廃城後は本丸内に建てられた赤松小学校の”作法室”としてほぼ改変されることなく使われてきたという。しかし昭和32年の小学校の改築に伴い、御座間の建物は公民館”南水会館”として近くの公園に移築(一部改築)されてしまう。その際、公民館に相応しいよう柱や間仕切りの変更、そして床棚などが撤去される改変が行われた。そして平成になって本丸御殿の復元に伴い、元の場所に戻された。改変箇所も、古写真や模型などを元に極力復元したそうだ。すばらしい。ちなみに入ってきた手前の部屋が「御座間」で、奥が「堪忍所」だ。
「御座間」脇の通路。右側には縁側もあり、当時から縁側だったことが現物を見ても分かる。
手前の御座間 内部。床の間もちゃんと、ある。
奥の 堪忍所 内部。南側は当時は別の建物と接続されていたためか、フスマは閉じられていた(開けても図面からして、たぶん、壁。今は物置か)。
御座間から本丸奥を見ると、土塁が見られる。あの奥は石垣で、その向こうはかつての水堀が今も残っている。
御座所から、本丸御殿を見返す。地面に平面復元の絵が描いてあるとおり、御殿健在時はこの角度から奥の建物は見えなかった。
後編では復元御殿を出て、天守台および御殿裏側を見に行きます。
>> 佐賀城 [2/2] へ続く。<<
訪問時期:2014年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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