前回までの玉縄城 訪問記。
玉縄城址 遺構探索会は、龍宝寺をスタートして、七曲坂から太鼓壇、大手門跡から主郭(校内)へ入り諏訪壇、土橋跡、蹴鞠場、城跡碑などを見学できた。再度 龍宝寺へ戻り、玉縄ふるさと館とシンポジウムの見学をする。
<訪問記>
玉縄城址 遺構探索会を終えて、再度 清泉女学院から龍宝寺へ戻ってきた。朝は天気が悪かったが、戻ってきた頃には晴れ間が多く見られる良い天気になっていた。
龍宝寺 山門。龍宝寺は昭和20年代後半に火事で全焼しているが、この山門は類焼せず、江戸時代からの現存とのこと。
境内は綱成まつりにちなんで、玉縄城ゆかりの武将たちの幟があがっていた。
シンポジウムまで時間があったので、先程は演武奉納などでゆっくり見られなかった龍宝寺本殿などを見に行こう。境内は石畳の道。
龍宝寺 本殿とその手前の大石段。お城のような立派だ。
龍宝寺本殿。緞帳(どんちょう)の紋はもちろん北条家の「三つ鱗」。
続いて、山門横にある「歴史ふるさと館」にて、玉縄城ゆかりの品々を見学しよう。建物の写真を撮りそこねた。
玉縄城域の巨大模型。現在で言うところの大船駅は右上の方にあたる。
玉縄城 主郭部をアップ。1が大手門、2が諏訪壇、4が七曲坂、5が太鼓壇。
玉縄城とは関係ないが、明治維新後に設置された「太政官(だじょうかん)」名義の高札の現物。明治18年に内閣が設置されるまで(初代総理大臣はご存知 伊藤博文)、太政官が明治政府の最高行政機関だった。
太政官高札の下にシレッと置かれている丸石は、なんと、玉縄城の大手門礎石!大手門の礎石は流石にノミで綺麗に丸く形作られている。一方右側の「本丸礎石(御殿等か)」はただの川原石という様相。
玉縄城 大手門付近のジオラマ。主郭の土塁に向かって一直線に大手道が伸びていて、途中に門が遮っていた。先ほどの大手門礎石は、あの冠木門の礎石か。冠木門程度ならそんなに立派な礎石は不要と思われるので、実際はもっと立派で巨大な門柱だったのだろう。現在は主郭にテニスコート造営のため大手道は埋められ主郭土塁もコンクリートの壁になってしまった。無粋。
江戸時代前期に建築されたという民家、通称 旧石井家住宅へ。ここで本日のシンポジウムが行われる。
旧石井家住宅 説明板。元禄時代 (17世紀後半、5代将軍 綱吉公の頃) の建立とされる。国重要文化財。
旧石井家住宅の中へ。天井を見上げると、この見事な梁!に驚かされる。天井が一部開いているのは養蚕のためだとか。
シンポジウムは4部制。第1部は再び柳生新陰流師範による演武奉納。屋内で見ると迫力が一段とアップ。槍術、薙刀(ナギナタ)、太刀による演武。
第2部は、小田原市学芸員 山口氏による「北条氏康と綱成」。小田原北条氏の当主 北条氏康と、玉縄城主 北条綱成との絆を、古文書等から読み解くお話。第3部は、青山学院大学講師 真鍋氏による「江戸湾岸の攻防戦と玉縄城」。江戸湾を挟んで房総半島の里見氏と鎌倉の小田原氏との間で繰り返された戦いの実情について、こちらも古文書から読み解く。ユーモアもたっぷりでとても面白かった。そして第4部が写真のパネルディスカッション。
最後に主催の玉縄城址まちづくり会議の皆さん(右端が会長の荒井氏)によるご挨拶。ステキな会をありがとうございました。
訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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