設楽原古戦場 [3/3] 武田の老将・馬場美濃守の最期の地を訪問。

設楽原古戦場前回までの設楽原古戦場 訪問記。

歴史資料館を見学して、信玄塚、馬防柵、そして各地に残る武田方将士たちの墓をめぐる。Part3ではその締めくくりとして、総退却する武田軍の総大将 武田勝頼公を逃がすため殿軍を務めた老将 馬場美濃守の戦死之地を訪ねる。


<訪問記>

では再び、設楽原古戦場で戦死した武田軍の将士たちの墓をめぐっていこう。

shitaragahara-2868a-2824ふたたび、信玄塚の前へ。小塚の前に標石がある。
「右 設楽原決戦場、うしろの塚 原公墓、左 山県公墓」とある。

shitaragahara-2869a-2871まずはうしろの塚、から。分かりづらいが、上の写真の奥に見えている田んぼの一番奥にある。こちらが原隼人佐昌胤の墓。どこで切るのかやや分かりづらい名前か。原 隼人佐 昌胤(はら はやとのすけ まさたね)。隼人佐は官職(織田弾正忠、馬場美濃守、などと同じ)。原昌胤は有名人が多い武田家臣の中ではやや無名な方だが、武田二十四将の一人で、陣馬奉行を務め120騎を指揮したこともある有力家臣の一人だった。

shitaragahara-2870「原隼人佐昌胤之墓」。周りは平地、将士入り乱れる混戦の中で討ち取られたか。

shitaragahara-2872続いて奥の山県昌景の墓へは行かず、一旦表通りの方へ抜けて、街道沿いにお墓巡り。少し高台に何やら看板が見える。

shitaragahara-2873小幡上総介信貞(おばた かずさのすけ のぶさだ)の墓。彼も武田二十四将の一人で、甲陽軍鑑によれば武田家中での最大の500騎持ちだったとか。なお長篠の合戦で戦死したのは信貞とも信貞の甥とも信貞の父とも言われ、よくわからない。

shitaragahara-2874小幡上総介信貞之墓。

shitaragahara-2877小幡信貞の墓から更に街道に沿って奥へ。民家の横に、山県昌景の墓へ通じる山道と、それを示す看板や石碑が建っている。この道を奥へ。

shitaragahara-2878しばらく山道を上がる。高台の端、設楽原のぬかるみ地(柳田)をよく見下ろせる位置に、墓標が並ぶ。

shitaragahara-2879山県昌景および彼と運命を共にした武田将士たちの墓がずらりと並ぶ。

shitaragahara-2880山県三郎兵衛昌景之碑。武田四天王の一人と言われる譜代家臣で、重臣中の重臣であったという。長篠の戦いでは武田軍左翼を担い、馬防柵に最初に突撃するも撃退され、撤退戦の中で討死したとされる。信長公記では討ち取った諸将の筆頭にあげられており、織田軍の中でも名が広く知れ渡った武田家の重要人物だったようだ。部隊の甲冑を赤一色にした「赤備え」が有名。

shitaragahara-2881こちらは山県甚太郎昌次、従士名取又左衛門道忠、そして高さか又八郎助宣之墓、が並ぶ。元々これらの墓は此処にあったのだろうが時とともに風化忘却で分からなくなっていたようで、金子氏「戦場考」により再建、とある。

shitaragahara-2882設楽原いろはかるた「山県の最期 胴切りの松に 秘め」。五七五ではなかった。

shitaragahara-2885山県昌景の墓 一帯。奥に見える小山が、徳川軍が陣を敷いた高松山。

shitaragahara-2889s続いて、長篠城から豊川沿いに北上、新城総合公園に道が左折するところの角の高台に、馬場美濃守信房(信春)の “もう一つ” の墓がある。

shitaragahara-2890長篠城の近くの墓碑は昔から建てられていた墓碑だったが、こちらにも墓碑が建っている。設楽原いろはかるた「平然と 首を渡す 美濃守」。猿が橋にて殿軍を務め、無事 勝頼公が信州へ逃げたのを見届けた後、追手の織田徳川軍の武者に手柄とされよと首を差し出した―――という逸話が残る。

shitaragahara-2890a-2896短い石段を登ると、高台の上に墓石が幾つか並んでいる。中央の大きな墓石が馬場信房公の墓。

shitaragahara-2891馬場信房公之墓。右の小さな墓石には「馬場彦五郎勝行之墓」とある。この人物は誰だか正確にはわかっておらず、文書により信房公の伯父だったり、また四男か五男が付き添って戦死したという記録もあったりする。いずれにせよ、殿軍として信長公記にもその活躍ぶりが記録される程の馬場美濃守と、引揚貝で味方を逃がす時間稼ぎのために馬防柵へ突撃した(とされる)土屋昌次 以外の将士については、どこで戦死したのか細かいことは記録に残っていないようだ。織田軍による徹底的な追討が行われた大混乱の総退却、致し方ないのかもしれない。

ではその馬場美濃守が殿軍を務め、最期を迎えた「猿が橋」跡へ向かってみよう。

shitaragahara-2897豊川沿いの馬場美濃守之墓の更に少し北、豊川にほど近い崖の上に、その場所は残る。この看板と、ちょっとした駐車スペースのような場所が目印。「橋詰殿戦場」。奥に看板がある。なおここにゴミを捨てる輩がいるようで、横に赤枠で書かれた注意書きがなかなか秀逸。ここは設楽原決戦で多くの将兵の血が流れた遺恨の地、死者の霊に背くようなゴミ捨てや排尿便をして交通事故に遭遇しないよう気をつけて下さい、とある。まさに「お天道様は見ている」というやつだ。喝!

shitaragahara-2898「馬場美濃守戦死の地」看板。馬場信房戦死の地 この上、と書かれた看板もある。わかりやすい。

shitaragahara-2899「馬場美濃守戦死の地」説明板。ここから右手の道を登った所に標柱が建てられている、とある。

shitaragahara-2900説明板の右側を見ると「馬場信房戦死の地 この上」と書かれた看板が建つ。横には、とても登れそうにない急坂、というか、急斜面がある。

shitaragahara-2901もちろんここが登り口ではない(紛らわしい!!)。確かに戦死の地はこの真上あたりなのだが、登り口はもう少し奥にある。クルマに気をつけて先へ進もう。

shitaragahara-2903しばらく進むと、戻るような形で山の中へ通じる道が現れる。ここが登り口だ。

shitaragahara-2905急に山道になる。昔からの山越えで猿が橋へ通じる道、だろうか。

shitaragahara-2906しばらく進むと「ふぢう道」と書かれた石碑が現れる。この左側の道が、かつて織田軍の追討を防ぐため、馬場美濃守が殿軍を務めた山道である、とされる。

shitaragahara-2907馬場美濃守の戦死の地は、この「ふぢう道」の石碑の真上にあたる。奥の方にかすかに看板が見える。急斜面だが、なんとなく見える道をのぼる。

shitaragahara-2908「ふぢう道」石碑の上へ。上はちょっとした広場になっていて、中央に石碑が建っている。

shitaragahara-2909a-2913石積みとともに「馬場美濃守討死之地」の碑が建つ。碑は卒塔婆の形をしている。合掌。

shitaragahara-2911となりには「緒巻桜」の看板。馬場美濃守は主君勝頼公をこの高台で見送った後、この緒巻桜の下にて首を与えたと言われる。なお当時の桜は枯れ、その株だけが残るという。

shitaragahara-2912緒巻桜の看板の裏には、かつて此処で馬場美濃守の討死を見届けた緒巻桜の古株が残っていた。

shitaragahara-2914馬場美濃守が首を与えた緒巻桜のある高台の上から、豊川を見下ろす。今は杉木でまったく見えないが当時は川の様子、橋の様子、そしてそこを北上し退却する勝頼公がしっかりと見えたことだろう。

設楽原古戦場めぐりは、古戦場というより墓碑めぐり・戦死地めぐりという印象だ。ぜひ長篠の戦いの小説なり漫画なり(センゴク天正記など)を読んで各将士たちの最期を意識しながら巡ると、よりイメージしやすい。長篠城跡とセットで歴史ファンは訪れておきたい場所だろう。

訪問時期:2015年3月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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