設楽原古戦場 [1/3] 名門武田氏の “終わりの始まり” 設楽原へ。

設楽原古戦場は、天正三年(1575)に武田軍と織田徳川連合軍が戦った「長篠の戦い」の主戦場となった場所。きっかけとなった長篠城は東3kmほどに位置する。古戦場のため遺構は余り無いが、火縄銃など多くの史料を展示する設楽原歴史資料館、武田家重臣の墓や戦死地の石碑、織田軍が築いた馬防柵(復元)などが見られる。

[長篠の戦い 概要]
天正三年(1575) 5月、徳川方の奥平貞昌が籠もる長篠城 (徳川領と武田領の境目にあたる奥三河に位置する) を、三河奪還を目指す武田軍15000が包囲した。奥平家家臣 鳥居強右衛門の決死の活躍により長篠城は持ちこたえ、武田軍は西に現れた織田徳川連合軍30000と戦うべく、設楽原へ移動する。1000丁とも3000丁とも言われる大量の鉄砲を用意した織田軍は、馬防柵と土塁による”野戦築城”を行い、武田騎馬隊を殲滅する。また同時に徳川軍の別働隊が長篠城を包囲していた武田軍を奇襲し、壊滅させている。武田勝頼は僅かな供回りとともに信濃 高遠城へ敗走した。この戦いで武田軍は譜代家老や重臣など名だたる将兵を失い、被害数は10000とも言われる。(数字は通説で諸説ある)
(詳細は wikipedia を参照)

設楽原古戦場<基本データ>
●名称: 設楽原古戦場
●所在: 愛知県新城市 (マップ)
●対戦: 武田軍 vs 織田徳川連合軍
●発生: 天正三年(1575)
●遺構: 墓碑、戦死の地碑、復元馬防柵 等


<訪問記>

shitaragahara_map2設楽原古戦場は多くの武田家重臣の死者が出た戦いの地で、多くの将士の墓が残る。遺構は狭いエリアとは言え点在しているため、まずはマップを作成。ちょうど真ん中の小山の上に「設楽原歴史資料館」が建っており、ここで長篠の戦いを予習(復習)してから、各地をめぐろう。上記地図の赤印は今回訪れた場所。

shitaragahara-2750a-2835まずは小山の上の「設楽原歴史資料館」へ。

shitaragahara-2750b-2832駐車場の前にあった、ピッカピカの看板! 雨ざらしのこの場所にあってこの光り具合ということは、毎日係の人が磨いているのだろうか。おつかれさまです。ちなみに街の名前になっている「新城」は、長篠の戦いで大きく破損した「長篠城」に変わる新たな居城として城主だった奥平氏が築いた「新城」に由来する。

shitaragahara-2753なかなか近代的な建物。まるで美術館な装いの「設楽原歴史資料館」。

shitaragahara-2754s入口には、馬防柵を守る織田方の鉄砲隊兵になれる顔出しが。新城市は武田氏押しかと思いきや、織田氏押し?

shitaragahara-2755資料館の中へ。入場料300円、長篠城の保存館とセット券は400円でお得。正面には武田氏家宝だった「楯無」風の古いタイプの大鎧が飾られている。

shitaragahara-2756館内での撮影OK。素晴らしい。文化財保護のため、フラッシュおよび禁止物品はNG。展示資料である旨を記載しよう。

shitaragahara-2757入口にあるのは「最大級の大鉄砲」と記された大筒。これは、デカイ!説明によると全長332cm、口径4cm、重量72.8kg。設楽原とは関係なく、明治の西南戦争で用いられたとか、鴨の狩猟用だったとかの説があるとか。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2758大鉄砲を後ろから。ながっ。一体何人で抱えたのだろうか。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2760柵を超えて奥のメインエリアへ。

shitaragahara-2803なかなか綺麗な歴史資料館 内部。

shitaragahara-2761長篠城、および設楽原に関連する詳しい日程表。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2762そして、これが伝説の「信玄狙撃説」に繋がる火縄銃「信玄砲」。木の部分は失われ銃身しか残っていない。信玄による西上作戦(甲府から京を目指す)。野田城を包囲する武田軍27000に対し、野田城は僅か400。毎夜、城から聴こえる笛の音に導かれて堀端までやってきた信玄を、鉄砲の名手 鳥居三左衛門が狙撃。信玄に当たるとの声もあった。その後、野田城は降伏開城するも、武田軍は急遽撤退。そして甲府に辿り着く前に陣内で「病没」したとある。「笛の音に導かれ〜」のくだりは出来すぎだが、地元にはこの火縄銃とともに狙撃伝説が根強く残るという。黒澤監督「影武者」はこの説を元にした映画だった。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2763信玄狙撃伝説が残る「野田城」の模型があった。3つの曲輪を一列に配置した細長い城で、大軍で攻めにくい(守りやすい)城だった。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2764奥の広い展示コーナーへ。各種 火縄銃がズラリ。設楽原とは関係ないものもあった。設楽原=鉄砲本格導入の戦、ということで、火縄銃が集められたのだろう。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2765a-2793伝説の火縄銃「国友筒」(一番奥)。説明によると、銃身の角が筋状に盛り上げてあるところが鉄砲鍛冶の力量を示す、とか。秀吉が最初に城持ちとなった長浜城の近くに国友村はあった。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2766場内には甲冑類も多く展示されている。「鉄地黒漆塗烏帽子兜」。設楽原とは関係なく、江戸時代の作。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2768a-2790こちらは桃山時代に作成された「十二間筋兜」。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2770胴に「永楽通寶」の紋が入った「桶側二枚胴」。信長が好んで使った紋といわれる。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2772対する武田方、「赤備え」と恐れられた山県昌景隊が用いた赤い甲冑「朱漆塗仏胴具足」。赤備えはその後、真田氏や井伊氏も用いた。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2777設楽原周辺から出土した鉄砲玉!も展示されていた。発見した人の名前?を取って、山田玉や熊谷玉、などと呼ばれているようだ。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2781設楽原周辺のジオラマ。中央に恭しく赤い座布団に載せられているのは「出土玉」。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2786なんと、これまたすごい、伝 武田勝頼所用合標 まであった。合標とは戦場で敵味方を区別するために袖などに貼り付ける目印。勝頼公が付けたもの、とある。大敗した武田方の大将が持っていた合標が残っているとは思えないが…(勝った場合は近所の神社に奉納などはあるかもしれないが、負けた場合はそんな余裕は無いだろう)。ちなみに勝頼公は「大」の旗印を目印にしていたという。[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2803a-2794近くに設置された、武田軍 有力将士たちの碑。後ほど訪ねて歩こう。鶴翼陣の右翼を担当した真田兄弟のみ未訪)[設楽原歴史資料館 展示資料]

shitaragahara-2804資料館の屋上にも登ることが出来る。以前は屋上は設楽原の古戦場をイメージした柵などがあったそうだが、今は撤去され跡だけが残っている。

shitaragahara-2807保存館 屋上から見た設楽原方面。正面の小山が、徳川家康の本陣跡だった「弾正山」。今いる小山は「信玄台地」と呼ばれている。

shitaragahara-2815では保存館を出て周辺の遺構めぐりをしよう。保存館の裏手には、先ほど展示で見た出土鉄砲玉の出土地を示す標柱が建っていた。左が「後藤玉」右が「高橋玉」が出土した場所、だとか。玉の名前は、ややこしいが、発見した人の名前にちなむもののようだ。

>> 設楽原古戦場 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2015年3月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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