設楽原古戦場 [2/3] 山県昌景ら天下無双の武田騎馬隊を撃退した馬防柵へ。

設楽原古戦場前回までの設楽原古戦場 訪問記。

設楽原歴史資料館で予習(復習)してから古戦場めぐりへ。古戦場には城と違って構造上の遺構はほぼ無い。Part2では、”信玄台地”と”高松山(家康陣地跡)”の間に流れる「連吾川」周辺の激戦地に復元された馬防柵を見に行く。


<訪問記>

shitaragahara-2821a-2831では歴史資料館を出て、墓や史跡碑めぐりをしよう。まずは「信玄塚」。設楽原で散った戦没者たちを祀る塚だが、長篠の戦い時点では既に信玄は没していた。天から見守っているぞという意味だろうか。資料館正面の土塁の上を歩いて行くよう方向板が建っている。

shitaragahara-2821b-2830資料館のある信玄台地は元々 砦跡か何かだったのだろうか、と思わせる土塁と削平地。桜と土塁は春の山城の季語とも言える。この土塁を越える。

shitaragahara-2821c-2829分かりづらいが、土塁を超えた先にある墓地?っぽい広場の奥にあるこの塚が「信玄塚」の1つ、大塚。信玄塚は大塚と小塚の2つから成る。右の方に小さく「大塚」と書かれた標石が建っている。

shitaragahara-2821d-2825そしてこちらがもう1つの信玄塚「小塚」。こちらも樹の根元に「小塚」と書かれた標石が建つ。

shitaragahara-2821e小塚の裏あたりに建つ信玄塚の説明板「信玄塚と火おんどり」。両軍あわせて16000もの戦死者が出た、とある。もっとも、後世の軍記物などに色々な数字が描かれているため、実際の戦死者数はよくわからなくなっているとか。信長公記には「主だった武士と雑兵一万人」+「餓死した者、溺れ死んだ者は数知れない」、多聞院日記には「千余人討死」とある。一面死体だらけになったであろう設楽原の住民は「戦場のかたづけに従事」(大変だ!!)し、この地に2つの塚を築いて弔ったという。それがこの「信玄塚」。勝頼と信長家康の戦いなのに信玄なのは、当時いかに信玄の偉名が大きかったか、ということのようだ。

shitaragahara-2822信玄塚、大塚(右奥)と小塚(正面)。

では歴史資料館の正面側に回って、戦死地の供養碑めぐり。

shitaragahara-2836まずは歴史資料館入口の坂のところにある「甘利信康」碑。傍らに「設楽原古戦場いろはかるた」という看板があって、五七五風に「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」とある。立ったまま切腹した、ということだろうか?凄まじいことである。史料によれば甘利は山県昌景隊とともに左翼を担当したようだ。信長公記には討死した「見知った者」の中に「甘利吉利」があるが、同一人物だろうか?

shitaragahara-2837連吾川に架かる橋「柳田橋」。この付近は正面の高松山(家康本陣)の前にあたり、馬防柵が一面に設けられ、突撃する武田騎馬隊と迎え撃つ織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所で、「柳田前激戦地」と彫られた石碑が建っていた。設楽原古戦場いろはかるたは「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」。

shitaragahara-2838ふと見ると柳田橋の柱には織田鉄砲隊のプレートが埋め込まれていた。ちょうど、織田軍側の方の柱(西側)に、武田側(東側)を向いて、銃を構えている。ということは・・・

shitaragahara-2838a-2860その前には、馬防柵に身を隠しながら、一列に並んで鉄砲を構える織田鉄砲隊の姿が。

shitaragahara-2838b-2861そして対する武田軍側(東側)は、突撃する騎馬隊の姿が。最高峰の柱には山県昌景だろうか、騎馬隊の大将と思われる武者が突撃命令を出しているような姿が描かれている。ちょっとした見どころ。

shitaragahara-2839では連吾川に架かる柳田橋を越えて、武田軍が騎馬に乗って突撃した織田徳川軍の陣地前へ向かってみよう。信長は、無防備な鉄砲隊を守る仕組みとして、設楽原に着陣してから徳川・滝川の両隊の前に騎馬隊の侵入を防ぐための柵を造らせた、とある。これが有名な「馬防柵」で、現場に一部復元されている。当時はこのあたりは「ぬかるみ」だったのだろうか、肥沃な土地柄もあってか今は田んぼになっている。なおヌカルミでは流石に馬は人を乗せて素早く動けないため、柵前の戦いは馬から降りて徒歩での突撃だったのでは、とする研究もあるそうだ。なるほど。

shitaragahara-2840田んぼの畦道を進むと、赤い毛糸ぼうしをかぶったお地蔵さんがお目見え。お参りして、奥を見ると、均された土塁状の削平地の上に、復元された馬防柵が見える。あそこまで、行こう。

shitaragahara-2841徳川陣地前に築かれた、馬防柵。山県昌景率いる武田騎馬隊は、あの柵に向かって突撃し、鉄砲隊の前に多くが討ち取られた。柵の前は田んぼになっているが、写真右奥の方に、柵へ向かうための道が造られているのが見える。あそこから柵前へ行こう。

shitaragahara-2843馬防柵。交互に二重三重に柵が構築されていることが分かる。柵の下は小さな土塁が築かれていて、簡単に倒れないようになっている。

shitaragahara-2844一部の柵は新しい木で作られていた。よくある作りっぱなしではなく、ちゃんと補修整備されているところに好感が持てる。なお当時の馬防柵は、岐阜から兵士個々人に担がせて持ってこさせたそう(参考:愛知県観光ガイドより)。また復元馬防柵は(雨ざらしということもあり劣化が早いのだろう)5年に一度作りなおしているそうだ。おつかれさまです。素晴らしい。入口は柵の横に造られている。

shitaragahara-2845a-2850柵の内側へ。柵は破られると横移動されて殲滅されるので、恐らく、武田騎馬隊は柵の内側に入ることは出来なかった(柵の手前で一斉銃撃により殆どが討ち取られた、柵の前には多くの死体が連なり後続部隊は勢いづいた突撃も難しくなるだろう)。信長公記によると、左翼部隊だけでも、山県昌景、武田信廉、小幡一党、武田信豊、そして馬場信春の全5部隊が柵へ突撃している。

shitaragahara-2846柵の内側ぎりぎりのところに石碑が一つ。土屋右衛門尉昌次戦死之地。武田譜代家老で奥近習六人衆(信玄護衛侍大将)の一人でもあった重臣・土屋昌次が柵に取りつきながら大絶叫を上げて討死したと伝わる場所とのこと。設楽原いろはかるた「土屋昌次 柵にとりつき 大音量」。漫画「センゴク天正記」(第五巻) でもこのシーンは壮絶に描かれていた。

shitaragahara-2849復元馬防柵の一番奥には、古文献と時代考証により復元したという「鉄砲構え」と名付けられた堀・柵・土塁の三段構えによる防御設備が築かれていた。確かに柵をそのまま並べるだけだと騎馬の突撃で簡単に倒されてしまいそうだが、こうして立体的に築いて馬を足止めすれば、より堅固な設備となりそうだ。

shitaragahara-2852馬防柵の石碑。「三千挺の鉄砲とゝろく 天正三年五月二十一日 こゝ設楽原」とある。

shitaragahara-2853馬防柵 説明板。川に向かって(内側から外側を見て)右側(手前)が徳川軍、左側(奥)が織田軍による柵を区別して構築しているそうだ。出入口の設け方に違いがあるという。ここには三重の柵が設けられ、更に家康本陣の向こう側にももう一重の柵を設けるという、信長家康軍はまさに万全の態勢でこの決戦に望んでいた。

shitaragahara-2857向かって右側、このあたりは説明板によるところの徳川軍による柵、のようだ。柵がクロスして建てられており、入口は柵の隙間を通る形となる。(奥の織田軍による柵では、柵は一列に繋がれ折れ曲がり部に出入り口が設けられていた)

shitaragahara-2858馬防柵の一番南側へ。実際は、もっと南までずらーっと造られていた。

では馬防柵エリアはこれぐらいにして、歴史資料館側へ戻り、各武将の墓めぐりを再開しよう。資料館に戻るルートではなく、直接「信玄台地」を横断すべく、山道へ入る。

shitaragahara-2863さっきまで街中だったのにちょっと入るとこの山道具合、ちょっと不安になる。まっすぐ行くと、無事台地の向こう側へ出られる(保育園の北あたり)。

shitaragahara-2864s保育園の前の公園には築山があり、その上に碑が建っている。招魂碑、だった。右の方に見切れ気味に「設楽原いろはかるた」の看板あり。「そこかしこ 顕彰碑たてし 牧野文斎」。なんだこれ?(牧野文斎は明治初期の郷土研究家で、大正三年に高さ90cm、幅15cmの石碑や墓碑を建立した)

shitaragahara-2865招魂碑の築山の周りには幾つかの他の碑も建つ。まずは「武田勝頼公 指揮の地」。設楽原決戦時、勝頼公はここに建って指揮をとったようだ。やがて大敗する眼前の状況を見て、引揚貝を吹いたという。

shitaragahara-2866武田勝頼公指揮の地 説明碑。勝頼公の遺徳を偲ぶため、勝頼公が自刃した天目山(山麓の大和村 田野) 特産の甲州鞍馬石で建立したもの。

shitaragahara-2867近くには、武田の副将と言われる内藤昌豊の墓が建つ。設楽原いろはかるた「内藤の 陣地も墓も 天王山」。受験用の語呂合わせ唄みたいになってきた。なお先ほどのいろはかるたにあった「そこかしこに顕彰碑を建てまくった」と揶揄?された牧野翁の顕彰碑は正面に建つ細長い碑。それまでどこが何か分からなくなりつつあった設楽原古戦場の位置関係をちゃんと調べあげて最初に碑を建てた功績は大きいと思う。

shitaragahara-2868内藤修理亮昌豐之碑。陸軍大将 土屋光晴書、とある。

Part3では、引揚貝の後、御屋形 勝頼公を逃がすために決死の殿軍を務め討死した老将 馬場美濃守(61)の最期の地「猿が橋」跡を訪ねます。

>> 設楽原古戦場 [3/3] へ続く。<<

訪問時期:2015年3月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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