近江大森城 [後編] 珍しい “登り土橋” (仕切り土塁) が見どころ。

大森城前回までの近江大森城 訪問記。

北西の登城路より登山開始。土塁に囲まれた小丘陵上の城跡は、こじんまりとしているものの、虎口や堀切、周囲の要所には櫓台を設けるなど趣向を凝らしている。


<訪問記>

oomori_map近江大森城 縄張図 再掲。周囲の土塁を右回りに回ってきて、主郭までやってきた。後編では城内の遺構を見て回ろう。

oomori-3997主郭の様子。中央の木組み人形「案内隊員」は「本丸(主郭)」のプラカードを持っている。

oomori-3999主郭の出口は虎口状になっている。土塁の上にプラカードを持った隊員がいるので見に行ってみよう。

oomori-4001主郭出口の土塁上に立つ案内隊員。「食違い虎口」のプラカードを持つ。武将名は「布施和泉守高盛 (年代不詳)」、腹の字は「ま」。しかし肝心の虎口は少し分かりづらい状態。

oomori-4003虎口から奥(西)へ。奥の方にももう1人立っている。

oomori-4004こちらは「二の郭」案内隊員。武将は「大森城主 三代目 布施大学亮友次 (1570年代)」。腹の字は「協」。

oomori-4007二の郭から北の郭(最初の土塁上から見下ろした曲輪)へは、このような土の坂のような道を通って移動する。

oomori-4008土の坂の入口。食違い虎口風の土塁が築かれていることが分かる。

oomori-4009土の坂。

oomori-4010土の坂は、なんと「登り土橋」というネーミングが付けられていた!プラカードを持つ案内隊員も、なんとなくドヤ顔。武将名は「池田八郎兵衛慰 (1620年代)」、腹の字は「お」。

oomori-4012「登り土橋」を横から。

oomori-4013登り土橋のすぐ脇(上の写真を撮っているところあたり)には、井戸跡もあった。寂しいことに井戸跡には案内隊員が居なかった。。。井戸跡にも注目してあげて!!

oomori-4014ということで井戸跡を覗きこむ。穴の周囲には(草で埋もれてて分かりづらいが)ちゃんと石組みがされているようで、下には何と水もあった。

oomori-4015井戸脇に立っていた大森城遺跡 説明板。登城口にあった看板と同じと思いきや、なんと説明内容が異なっていた。先ほどの「登り土橋」は「仕切り土塁」という表現がなされている。登城路の説明板では歴史について語っていたが、こちらは城内構成の詳しい説明をしている。場所に見合った説明内容、すばらしい。

oomori-4016曲輪内には「蔀池(しとみいけ)」の看板も掲げられていた。蔀(しとみ)とは草木の壁などで奥が見えないよう遮蔽する防衛設備のこと。蔀池とはそれが転じて、敵からは見えづらい位置にある池で、攻めてきた敵にとっては落とし穴的な位置づけとなる。案内隊員の武将名は「山田最右衛門慰實賢 (年代不詳)」、腹の字は「ま」。肝心の蔀池自体は、看板前の凹んでいる部分か。

oomori-4017 蔀池の奥には城内2つ目の出入口である「西虎口」が口を開いていた。

oomori-4019西虎口あたりから城内を見返す。曲輪の周囲の土塁が高い。

oomori-4024「西虎口 (西門跡)」案内板。案内隊員の武将名は「柴原左京亮氏重 (年代不詳)」、腹の字は「た」。

oomori-4030西虎口からは出ず、北虎口経由で帰路に着く。こちらが北虎口。案内隊員はなぜか北虎口には居なかった。

oomori-4031北虎口から下山。「大森城跡 →」の看板を逆に進んでいく。

oomori-4034登城口まで戻ると、古い城址碑が建っていた。里山整備される前はこれしか無かったのだろう。本丸跡 約二百米 と書いてある。

oomori-4035古い城址碑の横には案内板も立っていた。

城内に立っていた無数の案内隊員の「腹の字」をまとめてみると、
・た(西虎口)
・ま(蔀池)
・お(登り土橋)
・ま(食違い虎口)
・ち(本丸)
・協(二の郭)
・玉(物見櫓台)※ヒゲ
・た(北櫓台)

う〜ん?? ちなみにこの案内隊員を設置した団体は「玉緒地区まちづくり協議会 (web)」。「たまおまち」(玉緒町) と「玉協」(協議会の略称?) はわかるが、「た」が一つ余る…。何体か見逃したんだろうか?

ま、いいや。

大森城跡からの帰りに、山麓の布施氏居館跡に江戸期になって建てられたという最上氏の大森陣屋跡を見に行ってみた。

oomori_jinya-3947最上氏 大森陣屋跡 の立派な石碑。

oomori_jinya-3949石碑は裏の説明書きに注目。最上氏大森陣屋跡由緒、として細かく記されていた。もと出羽山形五十七万国の領主であった最上氏は「故あって」知行を減ぜられこの地に封を移された、とある。故とは最上義光亡き後の家督相続を巡る御家騒動(最上騒動)で、要は懲罰による改易だった。ただし廃絶ではなく、僅か1万石(その後5千石) で最上家自体の存続は許された。ここ大森に移ったのは、秀吉時代の朝鮮出兵で名護屋へ出陣した義光がここ大森郷を秣場(まぐさば)として与えられた縁によるとか。陣屋は明治になって殆ど失われた。更に県道を通すこととなり、その際に発掘調査を行って、この碑が建てられたという。要は、見るところはないということか。

oomori_jinya-3950とはいえ、石碑の周辺はこの雰囲気。白漆喰の土蔵風建築物があったり、堀跡かもしれない側溝があったりと、陣屋っぽい雰囲気は醸し出していた。おしまい。

訪問時期:2015年4月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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