川越城 [3/3] かつて本丸の南西端にあった富士見櫓の土台跡へ。

川越城前回までの川越城 訪問記。

時の鐘から蔵造りの町並みへ。門跡、堀跡を見てから幕末に再建された本丸御殿へ。川越17万石に相応しい立派な巨大玄関にビビる。大書院も残して欲しかった。

Part3では本丸御殿の残りと、博物館、富士見櫓跡へ。


<訪問記>

移築された家老詰所から、広間へ戻ってきた。

kawagoe-1784広間棟へ戻ってきた。北へ進んでみよう。

kawagoe-1789ちょうど入口の受付の正面にあたる「使者の間」。御殿へ訪問してきた使者が待つ場所か。家臣たちが待つ部屋より欄間などが立派。

kawagoe-1793「中之口」と呼ばれる、一回り小さな玄関。今は小さな玄関だが、昔は正面玄関と同じく式台や階段などがあったと想定されている(が壊されてしまった)。

kawagoe-1794a-1792「中之口」説明板。正面の壁の柱は見た目を整えるためだけのダミーの柱、というのは、上の写真の右側の壁に設置された柱のこと。言われないとここが第二の玄関だとは(玄関部が封鎖されていて)気付かなかった。

kawagoe-1798ぐるっと一周回って、再び正面玄関前まで戻ってきた。最後の部屋、広間へ入ってみよう。

kawagoe-180236畳の広さを誇る「広間」。来客が城主のおでましまで待機した部屋と考えられている。城主がおでましになって謁見する部屋はここではなく大書院(解体済み)の「大広間」だったとか。

kawagoe-1803a-1799「広間」説明板。絵が描かれた杉戸は藩の御用絵師が当時描いたもので、やはりこれも廊下の間仕切りのために使われていたとか。ふすまの引き手(取っ手)が金ピカ。

kawagoe-1809藩の御用絵師が当時描いたという杉戸の絵。

kawagoe-1810a-1804柱に据え付けられた「釘隠し」。

kawagoe-1826御殿を退出。玄関と広間、家老詰所しか残っていないとはいえ、大名御殿を体感できる素晴らしい施設だと思う。川越城本丸御殿 の石碑は玄関向かって左側に建っていた。

kawagoe-1826a-1825川越城本丸御殿 全景。左端(南端)に門があって庭に入れるようになっているが、当時は広間棟に隣接する形で大広間が建っていた。参考:丹波篠山城の大書院(復元)。こんな感じの建物がここにもあったと思われる。

kawagoe-1827a-1820川越城の在りし日の曲輪状況、立体模型。自然地形をそのまま利用したかのような複雑な堀を巡らせた平城だった。今は殆ど埋め立てられている。一番右端が「大手門」、そこからまっすぐ本丸に伸びている道が「大手道」で、その途中、追手曲輪と中曲輪の間に存在する3つの堀のうち、一番左側の堀が、現存する「中ノ門堀」。最初に見に行ったところだ。

kawagoe-1837続いて、旧二の丸に建つ「川越市立博物館」へ。入館料 200円也。

kawagoe-1838s川越城七不思議の1つ、霧吹きの井戸。古い石を繰り抜いた井戸に蓋がしてある。有事の際はこの蓋をあけると霧がもうもうと立ちこめて城を覆い隠したという。しかし近世川越城は戦乱に巻き込まれてなかったので、その前の時代、扇谷上杉氏や後北条氏の時代の逸話か。

kawagoe-1840博物館内部。中は川越の街の歴史や構造について古代から現代までのコーナーで紹介されているが、御城ブログということで中世〜近世からいくつかご紹介。まずは「江戸図屏風」。17世紀末頃の江戸近辺の姿(3代将軍家光公の足跡を兼ねて)を描いたもの。右上の方に江戸初期の川越城の姿が描かれている。堀に囲まれた本丸内に本丸御殿が描かれている。鷹匠も描かれていることから、家光公が鷹狩りに川越を尋ねた様子を描いたものかも、とのこと。

kawagoe-1842同じく「江戸図屏風」より、家光公時代の江戸城の姿。黒い五層天守(寛永度天守)が目立つ。銅瓦に銅板の壁で、火災に強い作りとされていたが、家光公死後の1657年に発生した明暦の大火で、過失により銅窓の1つが開いていてそこから火が侵入して焼失した。

kawagoe-1843川越城ジオラマ。城だけでなく川越の街全体が再現されている巨大なジオラマだ。本丸御殿がライトアップされている。

kawagoe-1845川越城ジオラマより、本丸御殿アップ。玄関に続く広間棟の南側(左側)に巨大な屋根の「大書院」が隣接している。なぜ壊したのか…。そして左奥(南西端)には、代用天守だった、三重の富士見櫓が見える。これは現在、その土台のみが残っているという。

kawagoe-1848川越の町並みジオラマ。こんなの大好き。でも街中に人っ子ひとり居ないのが残念。

kawagoe-1855川越といえばやはり名将・太田道灌[おおた どうかん]。室町時代に関東管領だった上杉家の庶流・扇谷上杉氏[おうぎがやつ うえすぎし] の家臣だった太田道灌は、ここ川越城や江戸城を建てたことで有名。武州・上州で発生した歴戦を闘いぬき、15世紀における扇谷上杉氏の覇権に貢献したが、功績が故に絶大になりすぎた家内権力を妬まれてか、1486年に家中で暗殺されてしまう。名将を失った扇谷上杉氏はその後 内紛などにより急速に衰え、後北条氏vs上杉連合となった河越夜戦(1546年、かわごえよいくさ)で当主が討死し滅亡、武蔵国は後北条家のものとなった。

kawagoe-1860s博物館を出て、本丸南側を散策。本丸御殿南側には、川越城築城によって城内に取り込まれることとなった「三芳野神社(みよしのじんじゃ)」が鎮座する。ここは、看板にもあるとおり、童歌「とうりゃんせ」の発祥の地(の1つ)とされている。

kawagoe-1861「とうりゃんせ」発祥の地ということで、その謂れが書かれているかと期待して境内をウロウロしてみるも、この「わらべ唄発祥の所」という石碑1つしか無かった。その後調べてみると、元々古くよりここにあった三芳野神社が、太田道灌による川越築城で城内に取り込まれることとなり、近隣の住民たちはお参りのために城内へ入ることとなった。その際、城内へは入れるものの、お参りを終えて城外へ出るときは(城内でスパイ的な行動をしていないか)入念な検査を受ける羽目になった…ということで「いきはよいよい、かえりはこわい」という歌詞になっているとか。天神様=三芳野神社、というわけだ。しかし全国には他にも「とうりゃんせ」発祥の地を謳う場所はある。

kawagoe-1863その他、境内には「川越城の七不思議」看板があった。最初の「霧吹きの井戸」は、旧二ノ丸の博物館前にあった(現物かどうかは不明)。

kawagoe-1863a-1865三芳野神社 本殿。

kawagoe-1864s三芳野神社本殿から更に南へ。神社境内の周囲には、場所的に川越城本丸の外周にあたるのだろうか、土塁らしき人工的な土の盛り上がりが幾つか見られた。

kawagoe-1867三芳野神社を出て、少し進むと、住宅街のどまんなかに木々が生い茂った小山が現れる。ここが、かつての本丸の南東端にそびえていた「富士見櫓」跡という。その名の通り、かつてはこの上に三重の櫓が建ち、そこから富士山が見えた、ということだ。土塁の上にも登れるようなので、行ってみよう。

kawagoe-1869富士見櫓の入口の前は「田曲輪門跡」の石碑が建つ。12あった城門の1つ。

kawagoe-1870ここから富士見櫓台跡に登ることが出来る。

kawagoe-1871富士見櫓跡 説明板。今は御嶽神社となっている。江戸末期の測量記録によれば、縦15m・横14mのほぼ正方形な櫓だったとか。

kawagoe-1874富士見櫓台の上へ。古い「川越城址碑」が建つ。奥に見えるもう1段高いところが「櫓台」か。

kawagoe-1874a-1872川越城跡 説明板も建っていた。

kawagoe-1875富士見櫓台へ。今では木々が生い茂り、富士山どころか、眺望も楽しめなかった。残念。かつての高さの展望台を建てて、当時の雰囲気を楽しめるようにしてはどうか。

kawagoe-1876富士見櫓台から南側の下を見る。結構な高さだ。ここは本丸の西南端にあたり、櫓のすぐ南側と西側は内堀が回らされていた。今は埋め立てられているが、恐らく前に見える道路が当時からあった道で、その手前の土部分が「堀跡」か。

川越城跡、都市化により遺構はほとんど残らないが、その中でもかなりの規模で威容を現代に伝える「本丸御殿」はやはり見もの。100名城指定もまさにこのおかげだろう。現存4棟しか残らない城内御殿の1つ、見る価値は大いにあり!(現存4御殿=川越城本丸御殿、掛川城二の丸御殿、二条城二の丸御殿、高知城本丸御殿)

訪問時期:2015年3月
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川越城 [3/3] かつて本丸の南西端にあった富士見櫓の土台跡へ。” への4件のフィードバック

    1. さだのまるさま コメントありがとうございます。本丸御殿の立派さは言わずもがな、復元された中ノ堀や櫓台など、都市化で消えた川越城の痕跡が僅かながらにも見られます。また今回は未訪問ですが近くの「喜多院」には江戸城の建物が移築保存されています。結構範囲が広いのでレンタサイクルなどがあると便利かもです。ぜひに!

  1. 藩主の謁見の間である大広間を再建してほしいです。一番大事な場所なんで、どんな雰囲気、どんな襖絵があったか知りたい。

    1. コメントありがとうございます。川越城の本丸御殿は明治初期に現存部分を残して取り壊され、往年の姿は平面図や外形の墨絵 程度しか残らないようです。その図面を元に同規模の建物は再建できても、襖絵や内装などは残念ながら記録がなく想像の産物になりますね。。。
      http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/ippan/pdf/55.pdf

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