安土城 [6/7] 天主を支えた111個の礎石が整然と並ぶ天主台へ

安土城前回[5/7] までの安土城訪問記。

巨大石段の大手道から登城。怪しい伝◯◯邸群を経て、黒金門から巨大な二の丸石垣を見る(左写真)。伝二の丸の信長公廟所、伝本丸の本丸御殿跡(南殿跡)を経て、本丸取付台から天主台へ。


織田信長の夢の跡、滋賀県琵琶湖畔の山上に残る「安土城跡」
_↑Travel.jpに寄稿した安土城跡の紹介文です。端的に見どころをまとめました


<訪問記>

いよいよ天主台の上へ。

azuchi-6314a-6344石段を上がると、そこには低い石垣に囲まれたエリアに、まるで碁盤目のように整然と並ぶ巨石の数々。かつてここにそびえていた、七層の大天主を支えた「礎石」だ。これは壮観。

azuchi-6314b-6347碁盤目状に並ぶ礎石をわかりやすい角度で。お見事。よく見ると中央の石だけが無い。発掘調査にて、礎石の無い部分には礎石を外した跡は無く(つまり元々無かった)、代わりに深さ1mのいびつな形(長靴型)をした土坑だけがあったという。現在は埋め戻されているのか、穴は見当たらない。

azuchi-6321安土城天主台跡 説明板。天主台の内部は「石蔵」と呼ばれる地下一階に相当する空間になっていたが、その壁を構成する天主台石垣の崩壊のため、どれぐらいの高さがあったかはもはやわからないという。また天主一階(天主台の上)の面積は、この石蔵の二倍半近くあったようだが、これも天主台石垣の上部崩壊のため、現在はかなり狭く感じられるようになってしまったという。

azuchi-6325天主台石垣の上に登って、再度 石蔵の礎石群を見下ろす。なお天主台石垣の上には石蔵から簡易の階段で上がることが出来る。

azuchi-6326天主台石垣を伝って北端へ、ここから眺望が楽しめる。

azuchi-6327天主台 北端。本来は天主台石垣は更に数m(正確な高さはもはや不明)高く、更にその上に七層構造の大天主が載っていたため、信長公が往時に見た景色は更にこの高さから20mほど上からだった。

azuchi-6328安土城 天主台上からの眺望、北方向。安土山は築城当時、琵琶湖に飛び出す形の丘陵だったため、眼下の田畑部分は全て当時は「琵琶湖」だった。戦後埋め立てられ、琵琶湖の湖岸は遥か遠くになってしまった。

azuchi-6329安土城 天主台上からの眺望、北西方向。正面のエリアはほとんど干拓地。

azuchi-6337天主台の上から西方向を見ると、先ほど見た「伝二の丸跡」の信長公廟所がよく見える。なお廟所の裏あたりに、古絵図によれば天主台北側へ回りこむ道が以前はあったようだが、ご覧のとおり現在は藪化。

azuchi-6338天主台 北端より石蔵(礎石群)方面を見る。調査によると天主台の石蔵周囲の土塁部はかなり分厚かったようで、それが少し垣間見られる構図。

azuchi-6351天主台の土塁上をぐるっと回りながら石蔵を見下ろす。こう礎石が並んでいると、この礎石部の上「だけ」に細長い天主が建っていたような印象を与えがちだけど、本来は周囲の土塁(天主台石垣)全体の上に建っていて、地下1Fである石蔵がその天主台石垣内部の中央にあった、という感じだ。

天主台を見終わって、下山へ。下山時は大手道からではなく、旧摠見寺前ルートを辿ろう。伝黒金門跡までは同じルートで、その先の石段を降りたところにある「伝信忠邸跡」を右折する。

azuchi-6399伝黒金門跡の先の石段を降りる。発掘調査資料によると、この階段(というか尾根道)は崩壊が激しく、殆どが作り直し、そして過去の摠見寺等による改変により元の姿(信長時代)がよくわからなくなっているということに注意しよう。

azuchi-6402石段を降りていると、ふと右側に石碑を2つ発見。「織田信澄邸跡」「森蘭丸邸跡」とある。いずれも「伝」(=史実でない可能性が高い) だが、これも例の江戸時代の古絵図によるもので、しかもその場所はこの尾根道沿いではなくもっと下の方(立入禁止の七曲り道沿い)。いろいろと残念な石碑だ。ただ名前は有名な二人なのでここに建てたのだろう。

ちなみに信長小姓として有名な「森蘭丸」(本能寺にて主君と共に討死) は、信長公記によると「森乱」と書かれており(「蘭」の字は後世の改変)、本名は「森成利(なりとし)」とされる。父は浅井朝倉家との戦いの過程で近江 宇佐山城で討死した森可成(よしなり)、兄は小牧長久手で討死した森長可(ながよし)。その子孫は忠臣蔵で有名な浅野家の跡を継いで赤穂城主となり明治維新を迎えた。

azuchi-6404復元工事からそんなに時間は経っていないのだが、石段は早くも崩壊気味。

azuchi-6406伝信忠邸を越え、右へ。手書きの看板に従い、旧摠見寺方面へと向かう。汚れすぎて読みづらいので、入城時にもらえるパンフの地図を参考に。

azuchi-6407もう少し進むと、読みやすい看板が現れる。これを曲がり角に設置すべき。旧摠見寺跡には三重塔、仁王門という2つの巨大な建造物(重要文化財)が現存する。見に行こう。

azuchi-6409長い石段を上がる。旧摠見寺は、安土廃城後も残り、秀吉から朱印状を拝領し守られてきたため、このあたりの石段は常に整備されてきたものかもしれない。

azuchi-6410巨大な石垣の前のこの場所には、かつて「摠見寺 裏門」が建っていた。裏門は明治に超光寺の表門として移設された(そちらで現存)。

azuchi-6413石段を上がると広い場所へ出る。草木も刈られ整備されている印象だ。ここが旧 摠見寺跡。

azuchi-6414s旧摠見寺跡の中央部にある基台が 旧摠見寺 本堂跡。安土廃城後も残っていたが(古絵図も残る)、残念ながら幕末に焼失。

azuchi-6415摠見寺跡 説明板。信長が安土築城時にここに近江各地から移設し、創建した。本来の通常登城ルートはこの下の百々橋口と呼ばれる門から、この旧摠見寺境内を通り、先ほどの尾根道を通って、伝黒金門へと至るルートだった。信長の菩提寺となったのは、信長死後の秀吉期からとのこと。

azuchi-6416s訪問時、旧摠見寺 本堂跡を草刈り中だった。暑い中おつかれさまです。

azuchi-6418本堂跡の奥には庫裏跡や書院跡などが残るようだが現在は埋め戻され展望台となっている。なおこの下からは発掘調査にて庫裏以前の建物跡と見られる遺構が見つかっている。それは信長公記で出てくる「摠見寺毘沙門堂御舞台」と称される舞や能が催された場所の跡ではないか、とされている。眺望も抜群の一等地だ。

azuchi-6419旧摠見寺 庫裏跡から見た、安土山西方の眺望。当時は一体が琵琶湖の内湖(琵琶湖と繋がっている)で、現在はほとんど干拓されたが唯一「西の湖」のみが残る。西の湖の向こう側の山の1つは、安土城を排して新たに築城した豊臣秀次の居城「八幡山城」。

azuchi-6422では旧摠見寺跡に残る現存建造物を見に行ってみよう。まずは手前にある、三重塔から。一段低いところにあるので、高さがわかりづらい。

azuchi-6432石段を降りて下から見上げる。かなりの高さだ。三重塔は柱に「享徳三年(1454年)」の墨書きが見つかっており、約560年前に建立されたということになる(安土築城時にここへ移設)。

azuchi-6433立派な三重塔。ぜひ中を見てみたいが、非公開。日本各地に残るこの手の◯重塔はたいてい非公開なのが残念。

azuchi-6437春の新緑と、雲ひとつ無い青空、そして500年以上前に建てられた三重塔の木材。三色カラーのコントラストが素敵。

azuchi-6438三重塔を超えて、更に石段を降りていく。石段の先にはもう1つの現存建造物である「仁王門」が立ちはだかる。

Part7では安土城を出て「信長の館」を見に行きます。

>> 安土城 [7/7] へ続く。<<


訪問時期:2015年6月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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