安土城 [4/7] 秀吉が信長一周忌に大法要を行った信長公廟所へ。

安土城前回[3/7] までの安土城訪問記。

巨大な石段が延々続く大手道から登城(というかここからしか今は登れない)。怪しい伝◯◯邸群を経て、黒金門から巨大な二の丸石垣を見る(左写真)。信雄公の供養塔を参拝してから、いよいよ二の丸へ。


織田信長の夢の跡、滋賀県琵琶湖畔の山上に残る「安土城跡」
_↑Travel.jpに寄稿した安土城跡の紹介文です。端的に見どころをまとめました


<訪問記>

二の丸高石垣の前、二の丸下帯郭 西面 から二の丸へ向かって進む。

azuchi-6201二の丸石垣に沿って東へ。ここは発掘調査から右側の櫓台を利用した櫓門の存在が判明している。

azuchi-6201a-6205櫓門あたりから、二の丸下帯郭 西面を見返す。二の丸石垣は昭和の整備工事でも積み直しがなされていないためか、上部は土がむき出しになっている。昭和整備以前は、城内が全体的にこういう感じだったのだろう。

azuchi-6201b-6206二の丸下帯郭の櫓門のあったあたり。

azuchi-6202二の丸下帯郭はここまでで、ここから更に石段を上がると二の丸および本丸へと繋がる。石段の最上部には本丸西虎口として更に櫓門が建っていた。今は苔むした石垣と樹木がただ生える道だが、当時は城内深部へと続く堅固な通路だった。

azuchi-6210a-6391石段向かって右側の巨大な石垣は本丸西櫓台。ここを利用して、本丸へと続く最後の櫓門が道を塞いでいた。その右奥が本丸御殿の建つ本丸エリアとなる。石段の正面はちょっとした枡形になっていて、本丸西溜まり、と呼ばれる場所のようだ。ここは発掘調査で興味深い結果が出ている。石段向かって左側が二の丸となる。

azuchi-6211石段に上る前に、踊り場部分に置かれた巨石に注目。仏足石と呼ばれる、巨大な仏様の足あとが彫られた石で、石仏等と同様「石材として」使われていたようだが、昭和初期の整備時に、崩壊した石垣石の中から見つかり、ここに展示されたという。

石の上面を見ると足型が彫ってある。これが結構デカイ。どれぐらいデカイかと言うと ↓

azuchi-6213これぐらいの大きさ。デカっ!

azuchi-6217では最後の石段を上がって、本丸・二の丸エリアへ向かおう。

azuchi-6218石段の途中から、二の丸下帯郭を見下ろす。当時 巨大な櫓門が建っていた櫓台の上には、今は巨木が枝を縦横無尽に伸ばし尽くしている。

azuchi-6219石段の上へ。巨大な礎石も見える。右側の櫓台にはこれまた巨石が埋め込まれている。しかしこの櫓台も昭和の積み直し工事対象となっているので、どこまでが「天正石垣」かは不明。

azuchi-6223石段の上へ。ここは、二の丸(左上)と本丸(右奥)の間に存在する枡形的な場所で、本丸西溜まり、と呼ばれる場所。

西溜まりを見る前に、まずはもう一段上がって二の丸へ向かおう。

azuchi-6224二の丸への石段。この石垣も昭和の「新設」とか。

azuchi-6225石段の上には昭和初期の整備時に建てられた「二の丸阯」碑と「織田信長公御廟」碑が建つ。奥へ行こう。

azuchi-6227広大な二の丸の奥に、綺麗に切りだされた石材の石壁で囲まれた廟所が見えてきた。

azuchi-6230ここが「織田信長公御廟所」だ。中に入ることは出来ないが、門の戸は開けられているので、門前から中を見てみよう。

azuchi-6231二の丸にある織田信長公御廟所 正面。

azuchi-6232織田信長公御廟所 内部の様子。ここは、信長の一周忌に合わせて秀吉が故信長公の衣冠束帯や太刀などとともに本能寺の灰を埋めて盛大な法事を行った、と伝わる場所である。江戸期を通じて織田家子孫はここを祀り修繕し続けてきたという。秀吉がここに廟所を建てたということは、恐らくここは「二の丸」ではなく、当時 信長の普段の生活の場(”殿主”)があったのではという説がある。政治や儀式を行う表舞台の場所が「天主」、生活を行う裏方の場所が「殿主」というわけだ(日本古来の「ハレとケ」の考え方)。発掘調査をすれば信長の家の痕跡が出てくるかもしれないが、古来からの廟所であり聖地でもあるので、此処を掘り返すのは難しいだろう。

azuchi-6232a-6241廟所の門に葺かれている瓦は、もちろん「織田木瓜」紋。門自体は新しそうな印象。

azuchi-6232b-6242門の屋根の下の彫刻も、織田木瓜。

azuchi-6233ちなみに御廟所のすぐ横には小さな台があり、100名城スタンプが置いてある。しかしご覧のとおり雨ざらし、あちこちに押されまくっていて、印影は潰れかかっている。ここで押さずに、駅前の「安土町城郭資料館」で押すことをオススメ。ここで押すと、こうなります。(>_<;)

azuchi-6236御廟所の横には、巨大な天守台(全面石垣だったはずだが火事の影響かでほとんどこちら側は崩れ落ちている)が見える。そして、その上には、七層の大天主がそびえていた・・・!

azuchi-6237御廟所の前から、二の丸と本丸の間にある枡形「本丸西溜まり」を見下ろす。降りてみよう。

azuchi-6243二の丸を降りて、再び本丸西溜まりへ。正面に古い石碑が建つ。護國駄都塔 と書いてある。意味はよくわからないが、かなり古そうな石碑だ。そういうときは、石碑の裏を見てみよう。

azuchi-6245なんと 天保十三年 建立。西暦で言うと1842年。時は幕末、異国の船が近海をウロウロし始め、幕府はまだ強気で異国船打払令を出したりしていた時代。浦賀に黒船(ペリー)がやってきて開国を迫られてしまうのは約10年後。長身で青い目をした異国人たちの脅威が迫る中、徳川幕府以前の国内最強の戦国大名だった織田信長公の御加護にもすがりたい雰囲気だったのかもしれない。

ちなみに、石碑の左奥に見えている平らな巨石は、発掘調査で発見された謎の巨石。用途不明だという。

azuchi-6247本丸西溜まり から、天主台方面を見る。左側の石垣が天主台。右側は櫓台。発掘調査の結果、どうやら大天主は、この「本丸西溜まり」側に倒壊したことが分かったという。。。

azuchi-6251天守台 西面。この西側(写真手前側)の石垣の下を平成の発掘調査時に掘ったところ、超高温で焼かれてそのまま堆積した瓦片などが大量に発見されたという。

azuchi-6255天主台の石垣隅部アップ。こちらは炎上した天主が倒れてきた方向だからか、石垣石も業火に晒され角が取れてしまっている。迫力満点。

azuchi-6258天主台 南面石垣。往時は実際はこの天主台南側すぐの道を通ることはなく、本丸西溜まりの櫓門からずっと天主まで続く建物(多聞櫓、本丸御殿 等々)の中をずーっと通って天主まで登っていた、と推定されているとか。しかし「白洲(砂利道)」と呼ばれる道もあったと書かれているため、ここがそうだったかもしれない。妄想は限りなく続く。

azuchi-6265天主台 東南部石垣 隅部。こちらは鈍角に曲げられた古い様式の積み方がされている。安土城の石垣は「伝二の丸」および「天主台」を除き殆ど全てが昭和の復元工事にて積み直しされているため、確実に「天正石垣」と言えるのは、この天主台石垣と伝二の丸石垣のみ、という。

azuchi-6266 天主台の石垣はそのまま天主台へ上がるための中段的場所(取り付き台)へと繋がる。

azuchi-6267本丸入口を振り返る。右側の石垣が “天正石垣” の天主台。

>> 安土城 [5/7] へ続く。<<


訪問時期:2015年6月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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