安土城 [3/7] 堅固な櫓門が建っていた伝黒金門から城内へ。

安土城前回 [2/7] までの安土城訪問記。

大手道の大階段を左右の伝◯◯邸に寄り道しながらひたすら登っていく。突き当りを左へ、左側は結構な高さの断崖となっている。更に大手道は右へ折れ急坂となる。右筆として信長政権を支えた武井夕庵の屋敷跡とされる場所へ。


織田信長の夢の跡、滋賀県琵琶湖畔の山上に残る「安土城跡」
_↑Travel.jpに寄稿した安土城跡の紹介文です。端的に見どころをまとめました


<訪問記>

大手道の七曲り上段より再開。

azuchi-6130七曲り最後のカーブを左へ曲がる。正面の石段の奥の曲輪は伝武井邸跡。

azuchi-6132七曲りを超えて。石段もかなり緩やかになってきた。右側に見える立て看板は摠見寺 墓地への道標。古絵図を見ると七曲り上部あたりから本丸直下へ伸びる道が描かれているので、おそらくこの墓地がその道か。

azuchi-6134踊り場的スペース。休憩用の椅子などが設置されているが、眺望は良くない。正面右奥(写真では見えない)には歌碑の石碑が建っていた。

azuchi-6136石段は終わり、平坦な道へ。パンフによると右手の一段高い曲輪は「伝 織田信忠邸跡」となっている。

azuchi-6142しばらく進むと、伝織田信忠邸の真ん中に明らかに最近の石段が現れ、道がT字路になる。右に曲がると本丸方面、左へ進むと旧摠見寺方面だ。まずは右の本丸方面へ。

azuchi-6145パンフが無くても、曲がり角のところに色々書いてある。ちなみにこの「道」は平成の整備による「仮設道」で、当時の道ではない。

azuchi-6145a-6144よく見ると足元に「伝 織田信忠邸跡」と書かれた例の石碑が建っていた、が、正面に草が生えているのでこの角度からしか見えない。かなり広い敷地。ちなみに信忠邸跡付近は摠見寺の畑として使われていた経緯があり、遺構は殆ど見つからなかったとか。

azuchi-6147伝信忠邸を超えると、ちょっとした踊り場があり、そこからまた長大な石段が始まる。いよいよ城内へ繋がる最後の難関のようだ。もうひと頑張り。

azuchi-6147a-6151ちなみに踊り場から奥へと降りる石段の跡もわずかながら見受けられる。現在はヤブヤブで立入禁止となっているが、古絵図によるとここが、石段の先にある「伝黒金門」へと通じる当時の登城路「七曲道」だった。現在の「大手道」から「伝信忠邸」を通ってここへ辿り着くルートは平成の仮説道。城ファンとしては、大手道だけでなく、百々橋口や搦手道などすべての登城路をちゃんと整備・開放してほしいが、整備予算の問題と、摠見寺の集金所問題(他の入口にもお金取る場所を作らないといけない)があるか。

azuchi-6150では、いざ城内へ。微妙にカーブを描く緩やかな石段を登る。通称「尾根道」。ここも発掘調査レポートを読むと破壊が激しく、どういう構造でどこを繋いでいたかすらわからない状況だったという。石段はほぼ平成の「作りなおし」ている。先ほど通ってきた「伝信忠邸」を横切る道は「仮説道」だ。

azuchi-6153尾根道をしばらく登ると、正面に巨大な石垣が見えてきた。あそこまでがいわゆる「武家屋敷エリア」、あの先が「御城エリア」か。(御城の定義はさておき)

azuchi-6155最後の方は石段も急坂になる。その頂点にそびえるように立ちはだかる石垣の壁。

azuchi-6158家臣の屋敷エリアと城内(三の丸〜)とを隔てる「伝黒金門」跡。今まで見てきた石垣よりも、その構成する石一つ一つが大きい!なお平成の発掘調査レポートによると、このあたりの石段は江戸期に積み直されたものらしく(恐らく摠見寺関連)、当時の道はどのようなものだったかは調べる術が無いとあった。また発掘調査にて、天正時代にはこのあたりから左右に進む道(つまり四つ角)があったという。

azuchi-6160伝黒金門跡内へ。直角に折れ曲がる「食い違い虎口」を形成している。発掘調査により、突き当り右側のエリアに、道を遮るように巨大な櫓門と多聞櫓が立ちはだかっていたことが判明している。石垣の下部に積まれた石の大きさに驚く。伝黒金門跡の石垣も昭和の復元工事で積み直されたもののようだが、それでも一番下の石ぐらいは本物だろうか。

azuchi-6162伝黒金門跡。右も左も正面も、巨石が並ぶ。入ってきたものを驚かす「鏡石」という概念はまだ無かっただろうが、その走りとも言えるだろう。

azuchi-6165伝黒金門跡。やはり、石が大きい。

azuchi-6166黒金門跡 と刻まれた古い標石と、その横の巨石。これはなんだろう。

azuchi-6168伝黒金門跡 説明板。これより奥の詳細な図面と古絵図が示されているのが嬉しい。

ここで古絵図が出てきたので、右面左上の「近江国蒲生郡安土古城図(1687年作図)」について少し説明。これは安土城炎上の約100年後に描かれた絵図で、ここに記載されている人名・曲輪名などが現在の石碑やパンフ等で示される名称のベースとなっている。この絵図には(真偽はさておき)信忠・信澄・堀久太郎 の邸跡などが書かれているが、江戸時代に、100年前に誰が住んでいたかをどうやって特定した(口伝があった?)のかは不明。前田利家邸は記載すらなく、また家康邸も唐突に「家康公」と書かれているだけだ。信長公記等、当時の一次資料にはこれら家臣の邸宅場所に関する情報はなく、考古学的には根拠の無い情報(なので全て「伝」)とされている。ちなみにここ「黒金門」自体もこの絵図以降に登場する名称で、信長公記では「おもての御門」と書かれている(これが伝黒金門に相当するかは不明)。これが、現在の安土城跡で見られる各場所の名称に関する事実である。

azuchi-6168古絵図部分アップ。一番右端に「堀久太郎」、黒金門(左端)の上に「長谷川屋敷」とある。その更に奥の出丸みたいなところには「森乱丸」「織田七兵衛信澄」と書いてある。天守奥の八角平の場所には「菅家九右衛門」(信長側近で本能寺の際は信忠に殉じた) となっている。二丸の御廟が赤字で書かれているので、100周忌の法事の際に描かれたものだろうか。古絵図全容は早稲田のデジタルライブラリーにてPDFで見られる。

azuchi-6169伝黒金門跡を伝二の丸側から見返す。左側の石垣の上に、櫓門があった。

azuchi-6177伝黒金門跡を超えて城内へ入ると、目の前に飛び込んでくるのは、巨大な伝二の丸の石垣の壁!これはびっくり。当時の人達はもっともっとびっくりしたことだろう。この石垣は大手道付近のような積み直しではなく、残っていたものそのまま「天正の石垣」という。安土城跡では平成だけでなく昭和の何度かの調査整備事業で石垣が大幅に積み直されており、現在見られる石垣は殆どが現存ではないのだが、唯一確実に当時のままと思われる石垣は2つあり、その1つがここ「伝二の丸石垣」(もう1つは「天主台石垣」)。往時はもう少し上までそびえていたことだろう。更にその上には土塀(あるいは多聞櫓)そして隅櫓などがそびえていた。まさに圧巻。この伝二の丸石垣の手前の場所は、二の丸下帯郭 (にのまるした おびくるわ) と呼ばれる。ここはその西面だ。

ちょうど広島大の三浦研究室にて想像図の復元CGを作成されているので、イメージを膨らますには最適。左端が伝黒金門、その前が、いま目の前にしている二の丸高石垣 前の、二の丸下帯郭 西面。

azuchi-6180では先へ進む前に少し寄り道。古絵図に「長谷川屋敷」と書かれていた、伝黒金門跡左奥のエリアへ。往時は二の丸を北へ周回して搦手道へと通じるルートだったようだ。

azuchi-6181二の丸高石垣。しのぎ積みと呼ばれる鈍角にカーブさせる古い積み方。

azuchi-6183振り返って伝黒金門跡の石垣を見ると、業火で焼かれたのだろう、石垣の角が取れひび割れている痛々しい姿が見受けられる。江戸城や大坂城など、米軍爆撃や火災で炎を浴びた石垣は、このように角が割れて無くなり丸くなるようだ。ただし伝黒金門跡の枡形石垣も昭和の積み直し対象だったため、どこまでが天正期の石垣でどこからが昭和の石垣かはもうわからない。

azuchi-6186奥へ進むと削平地へ。五輪塔が4つ整然と並んでいる。誰の供養塔かは左端の看板に書いてある。

azuchi-6187なんと織田信雄公ラインの子孫4代の供養塔という。ルイス・フロイスに安土城天主炎上の真犯人と名指しで非難された(ただし真相は不明)織田信雄の供養塔が、その安土城内にあるというのは、何とも奇妙。ちなみに信雄は、秀吉や家康から改易に次ぐ改易をされながらも何とか生き延び、最後は奈良の山中に 宇陀松山藩 として五万石を与えられ(隠居料)、悠々自適の人生を全うしたとか。

azuchi-6191では信雄公に挨拶したら再度 二の丸下帯郭 へ戻る。左の高石垣と、右の焼け割れた伝黒金門跡の石垣の対比がすごい。

azuchi-6193二の丸高石垣をぐるっと回って奥へ。発掘調査によると、この前の石段あたりにも巨大な櫓門が建てられていたという。

azuchi-6194a-6394二の丸高石垣を 二の丸下帯郭 西面の西南端から。上部はほとんど山になっているが、あの土の部分の一番上まで石垣が築かれていた、かもしれない。

azuchi-6196圧巻の二の丸高石垣。色んな角度から見ておこう。

azuchi-6200二の丸高石垣の隅部。長短の辺を交互に積んでいる「算木積み」ぽい感じもする。時代は1580年、まさに石垣技術が急速に発展している真っ只中の築城だった。

Part4では伝二の丸へあがります。

>> 安土城 [4/7] へ続く。<<


訪問時期:2015年6月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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