大坂城(大阪城) 真田丸を歩く [2/4] 真田丸比定地 明星中学 心眼寺

真田丸前回までの「真田丸を歩く」は。

大阪高低差学会さんのフィールドワークに参加して、真田丸および南惣構堀の比定地を歩く。まずは三ノ丸内にあった大坂城鎮守神の「玉造稲荷神社」へ。表参道跡を通って長堀通へ。上町台地と長堀通との段差がかなり大きく、その名の通り、ここが当時「長い堀底」だったことが体感できる。

Part2では南惣構堀に沿って上町台地との段差を見学後、南惣構堀の南に隣接していたという「真田丸」跡を目指します。


<訪問記>

長堀通北側の南惣構堀比定地を歩いています。

sanadamaru-3675突然の段差。階段の上は「清水谷公園」。清水谷という地名はその名の通り上町台地から湧き出た清水に由来するという。江戸時代には酒蔵が、そして安土桃山時代にはあの千利休が茶を点てたという。

sanadamaru-3677清水谷公園の段差の上へ。眼下の街道は長堀通、南惣構堀と思われる。清水谷公園は上町台地から堀側へボコっと飛び出たような場所にあたり、堀より南側を見張るに適した場所(櫓台)だとも思える。

sanadamaru-3680清水谷公園グラウンドより、ボコっと飛び出た櫓台風の場所を見上げる。

sanadamaru-3682清水谷公園の西側に隣接する道を南(堀方面)へ下がる。緩やかな下りが続く。これも南惣構堀の名残か。

sanadamaru-3684しばらく進むと「城南寺町」という場所に出た。まさに、大坂城の、南の、寺がいっぱいある町、という場所だ。GoogleMapで見ると確かに寺だらけ。

sanadamaru-3686a-3692s城南寺町より東へ。餌差町へ。明星中学校の東側の道が「浅野文庫諸国古城之図」の「真田丸」の中央に記された南北の街道にあたる(参考:「浅野文庫諸国古城之図:真田丸」広島市立中央図書館所蔵)。古城之図にて真田丸の中心地に描かれている場所は現在の「明星中学校」にあたる。この道の左側の柵の向こうだ。道の奥を見ると中学校の敷地が高台になっていることが分かる。そして、街道の東側に三つ並んで描かれた「寺」は現存する。ちなみに古城之図や冬の陣屏風に描かれる「真田丸南側の堀」は完全に埋められそれっぽい場所すら無かった。鎌八幡の前の東西の道が堀跡?

sanadamaru-36873つの寺の南側「大應寺」。

sanadamaru-3688a-37083つの寺の中央「興徳寺」。四本線入りの立派な土塀が囲む山門。中には日本庭園に加え、コインを入れると動く赤い車の遊具がある。

sanadamaru-3693そして3つの寺の北側「心眼寺」。ここは真田丸跡の石碑の他、真田信繁の墓標(ただし平成の建立)などが建ち並ぶ、真田丸巡りのメッカとも言える場所。しかし諸国古城之図によると真田丸比定地はここというよりも、この向かい側の「明星中学校」側も含めたもっと広大なエリアだった。では心眼寺境内へ入ってみよう。

sanadamaru-3694心眼寺 山門前。興徳寺の土塀には格式を示す四本線があったが、こちらは真っ白だ。山門前には仁王像が建ち、その前には「京都見廻組の墓」と「真田幸村 出丸城跡」の石碑がそれぞれ建つ。

sanadamaru-3695真田幸村 出丸城跡 石碑。六文銭も描かれている。心眼寺内で配布されているパンフによると、心眼寺は1622年に「真田の出丸城廊跡」に信繁親子の冥福を祈るために建立したのが始まりとされ「東西二つの郭から成る真田丸の東郭跡にあたる」と記載されている。先ほどの街道が真田丸東西の郭を分ける道ということか。文中「廊跡」というのが何かは分からない。なお前述の諸国古城之図によれば真田丸跡は東西郭には分かれて描かれておらず、巨大な郭(本丸)と、惣構堀との間に小さな郭が1つある2段構成の構造だった模様。

sanadamaru-3698心眼寺の定紋は真田家の六文銭。死者が三途の川を渡るときに必要とされる六道銭に由来する。戦いに臨む武士の必死の覚悟を表す家紋。

sanadamaru-3699心眼寺の境内へ。なお心眼寺の寺歴等に関する簡易なパンフが、このお堂の中にある。

sanadamaru-3700真新しい石に「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と彫ってある。左側に説明板があるので読んでみよう。

sanadamaru-3701先ほどの真田信繁の墓は400回忌にあたる2014年(平成26年)に造られたもののようだ。なお「真田幸村」という名前は史実ではなく、本当は「真田信繁」だったことは歴史ファンでは有名な話で、幸村というネーミングは江戸時代中期頃から軍記物や講談等で呼ばれ始め、今やすっかり幸村のほうがメインになってしまったという経緯がある。江戸時代、世に不満があっても表立って幕府の批判が憚られるため、かつて徳川家康を追い詰めたという真田信繁の活躍する物語を作ろうと思い立つが、そのままだと怒られるかもしれないので主人公(信繁)の名前をチョット変えて大活躍させる当時なりのギミックだったのでは、と言う説を聞いたことがある。

sanadamaru-3702a-3705本殿の前には慶應四年の銘がある古い墓碑が2つ並んでいる。幕末の京都見廻組「桂早之助」「渡邊吉三郎」の墓だ。

sanadamaru-3704京都見廻組の墓碑の説明板。この2人は何と慶応三年(1867)の「近江屋事件(坂本龍馬・中岡慎太郎 暗殺事件)」の実行メンバーで、特に桂(見廻組肝煎)は龍馬を斬った本人と伝えられている。桂・渡邊は、翌年の鳥羽伏見の戦いにて戦死し、大坂まで運ばれ心眼寺に葬られたという。なお高橋安次郎という見廻組伍長の墓もここにあったが紛失したとか。

sanadamaru-3714心眼寺の前の小道。左側の高台の上が明星中学校。諸国古城之図にもこの道の場所あたりに堀跡が載っており、恐らく真田丸裏側の堀だったのでは、そして右側には惣構堀と真田丸本体とを繋ぐ道を守るための小さな郭があった場所では、と思われる。

sanadamaru-3715この場所の地名はなんと「空堀町」!
下の看板が「(昭和)63年2月10日現在」で時が止まったままになっているのもポイント。

sanadamaru-3716a-3719心眼寺のもう少し北にある善福寺、別名「どんどろ大師」。お弓・おつるの像。歌舞伎で「どんどろ大師門前の場」に登場するキャラクターだとか。

sanadamaru-3717善福寺境内には「勝軍地蔵尊」というなかなか強そうな巨大なお地蔵さまが鎮座していた。 日露戦争病死者記念仏として明治時代に開眼したという。

>> 真田丸を歩く [3/4] へ続く。<<


訪問時期:2015年4月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

このブログの順位を見るには上のバナーをクリック! (=゚ω゚)ノ

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中