肥前名護屋城 [1/4] 太閤死後に破却されるも高石垣が残る城跡へ。

太閤秀吉が「唐入り(明侵攻)」に向けてその拠点とすべく1591年に築かせた巨大城郭。ここから2度に渡って全国の大名率いる大軍団が渡海、いわゆる「文禄・慶長の役」が勃発した。5層の大天守および総石垣造りの曲輪が築かれ、城の周囲には数キロに及び全国大名たちの陣屋が建ち並び、周辺は一時 京をも凌ぐ繁栄があったという。2度目の出兵中に秀吉が死去(1598年)、出兵は中止され、城は無用となり廃城となった。資材はその後築かれた唐津城に転用された。石垣は島原の乱後に他の廃城同様、破却された。現在は広大な土地に石垣・曲輪・堀跡と、各大名陣屋跡が転々と残る。

肥前名護屋城<基本データ>
●名称: 名護屋城 (なごやじょう)
●所在: 佐賀県唐津市 (マップ)
●築主: 豊臣秀吉
●築城: 1591年
●遺構: 石垣、曲輪、堀、大名陣屋跡
●関連: 佐賀県立名護屋城博物館

肥前名護屋城跡 本丸大手虎口前にて撮影した360°パノラマ写真 を公開しています。

肥前名護屋城歴史ツーリズムの姫君日記にこの記事が紹介されました。ありがとうございます!
リンク:姫君日記紹介記事[2015.4.22]肥前名護屋城歴史ツーリズム


<訪問記>

肥前名護屋城跡は佐賀県唐津市の北端に位置し、公共機関で登城派にはちと厳しいロケーション。JR博多駅から地下鉄経由のJR筑肥線で唐津駅、そこからバスで40分ほど。今回は某社ツアーに乗っかりバスで直行。こうしたツアーは有り難いが、現地での散策時間が短すぎる(今回は博物館30分、城跡1時間)のが玉に瑕。

hizen_nagoya-1196名護屋城跡 大手門口前。この後ろには名護屋城博物館がある。博物館も城跡も、なんと入場無料という太っ腹さ。実際には博物館を軽く見てから城跡へ向かったのだが、ブログではまず城跡から紹介、最後に博物館をご紹介。

hizen_nagoya-1197a-1156博物館前にあった全体マップ。どう見てもとても1時間で周りきれる規模ではないが、郷に入りては郷に従えで先へ進もう。(1時間のガイドコースは大手口→東出丸→三ノ丸→本丸 までだった)

hizen_nagoya-1197b-1194城内にはあちこちにキレイな看板が建てられている。情報がいっぱいで、なかなか現地でジックリ読むには厳しいが、古絵図の掲載が多く、現場と当時の姿とがその場その場で比較できるのが楽しい。これは、博物館でも見られる、肥前名護屋城図屏風。ザックリと描いているようで、実はかなり細かく現実に沿って描かれていることが分かる。

hizen_nagoya-1200では大手口へ。石垣の間が大手口。例の屏風絵では、逆方向から描かれているため、大手口付近の様子は描かれておらず、発掘調査で出てきた証拠だけが頼りとなるようだ。

hizen_nagoya-1201屏風型の珍しい形の説明板。中韓の客に配慮してか、400年以上前の中世の話を少し卑下し過ぎな文面。因みに当時 日本と戦争した国は「明」と「李氏朝鮮(明の冊封国、宗属関係)」。中国・韓国ではない別王朝。

hizen_nagoya-1202屏風看板の城内マップ部分。分かりやすいが、見どころが描いてないので、博物館あるいは大手口横の案内所で貰える「名護屋城跡ガイドマップ」を参考にしたほうが見逃しが少なくて済む。

hizen_nagoya-1202a-1357ではいざ大手口より登城。まっすぐの登城道が奥のほうまで続く。

hizen_nagoya-1203大手口に建つ名護屋城阯碑。周囲には破却された石垣の石材が散らばる。「内務省」と書かれているので戦前の史跡碑のようだ(「阯」も「址」の旧字)。

hizen_nagoya-1204大手口。右側の石垣は櫓台か。

hizen_nagoya-1205大手口左側の高石垣。石垣の上は三ノ丸。織豊晩期の作らしく、大小入り混じった巨石が積み上げられている「野面積み」様式。高さについては記載が無かったが10mはありそう。

hizen_nagoya-1206三ノ丸石垣の折れ曲がり部。隅部は破却による破壊を受けていてこの有り様。400年前に石垣を崩したまんまな雰囲気で保存展示されている。

hizen_nagoya-1207大手口 櫓台石垣。

hizen_nagoya-1208大手口 説明板。櫓台の奥(東)にある広場には長屋の跡が発掘されたようだ。

hizen_nagoya-1208a-1356大手口櫓台を越えたあたりから見る「登城坂」。城域は左側の高石垣の上なのだが、入るには一旦この坂を一番奥まで上がりきってから回りこまないといけない。右側の低いところが長屋跡が発掘された広場。

hizen_nagoya-1209三ノ丸高石垣。積み直し修復工事がなされたのか、先ほど見た櫓台付近の高石垣とは少し雰囲気の違う色合いをしている。名護屋城跡の石垣は破城による石垣破壊を受けているが、全体を壊したわけではなく、部分部分をV字型に壊す「破城のしきたり」に沿った方法のため、それ以外の部分はこうして美しく残っている。

hizen_nagoya-1211登城坂を登る。正面突き当りは「東出丸」。

hizen_nagoya-1212三ノ丸高石垣。表面がキレイに削られ平らにされた跡が伺える。

hizen_nagoya-1214進行方向に向かって右側、東出丸の櫓台跡。上部は例によって破壊されているが、登城坂の下の長屋が建っていた曲輪からはかなり高い石垣が構築されている。

hizen_nagoya-1215a-1229東出丸 全景。平らに均され、結構広い。城下町が一望できる場所でもある。

hizen_nagoya-1216a-1220東出丸から見下ろす城下町方面。北東方面にあたる。正面の森が「徳川家康陣屋跡」とされる。その奥はイカで有名な呼子で、橋の向こう側(右側)あたりにも徳川家康の別陣があったとされる。

hizen_nagoya-1217東出丸 説明板。別名「千人枡(せんにんます)」と呼ばれるそうだが、1000人を収容するにはちと狭いか。発掘調査にて門礎石・玉砂利・石段が発見されている(埋め戻し済み)。屏風絵によると東出丸内は土塀および多聞櫓でガッチリ囲まれ、三ノ丸入口にあった2層櫓から見下ろされる位置にあったようだ。ちなみにガイド氏の話によると太閤秀吉公の居宅はこの東出丸の真下にあったそうで、今は上の写真のとおり完全に森になっているが、いずれ発掘調査したら何か出てくるだろうとのことだった。ちなみに屏風絵にはこの下には能舞台が描かれている。

hizen_nagoya-1218東出丸 櫓台石垣。きれいに見える石段は、崩落防止のためほぼ積み直しが実施されている。櫓台の上にのぼってみよう。

hizen_nagoya-1219東出丸櫓台上から見下ろす登城坂および大手口方面。屏風絵を見るとこの櫓台の上には櫓は建ってなかった?ようにも見える。つまり石垣で囲まれた見張り土塁といった感じかな。代わりに坂の奥の三ノ丸側の石垣の上には2層の櫓がある。

hizen_nagoya-1223東出丸、三ノ丸へ通じる道の櫓台。隅部だけでなく上部も念入りに破壊されている。

Part2では三ノ丸から本丸へ向かいます。

>> 肥前名護屋城 [2/4] へ続く。<<


訪問時期:2014年10月
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肥前名護屋城 [1/4] 太閤死後に破却されるも高石垣が残る城跡へ。” への4件のフィードバック

  1. 名護屋城跡観光案内所で勤務している者です。
    肥前名護屋城跡への御来城ありがとうございました。
    ブログでのご紹介ありがとうございます。
    とても詳しくご紹介頂いており嬉しく思っております。
    よければ、こちらのブログをご紹介させて頂いてもよろしいでしょうか?

    1. 福姫さま。
      お越し頂きありがとうございます。
      名護屋城跡のキレイに整備された広大で大迫力の遺構に大満足でした。今回はツアー利用で時間が短く全て回りきれなかったため、またいずれ個人で再訪したい!と強く思っています。
      私のブログを御紹介いただけるとのこと、こちらこそ大変光栄です。是非よろしくお願いいたします。
      これからも、名護屋城跡を訪れる歴史ファンの皆さんに、城跡や歴史の魅力を語り継いでくださいね。

      1. ありがとうございます。
        早速ご紹介させていただきました。
        今後とも宜しくお願いいたします

  2. 福姫さま
    姫君日記の方も読ませて頂きました。熱い御紹介ありがとうございます!
    また名護屋城跡にはいずれ再訪したいと思ってますのでその際はまた宜しくお願いします。

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