肥前名護屋城 [2/4] 秀吉時代の本丸御殿跡が出土し平面復元整備中

肥前名護屋城前回までの肥前名護屋城 訪問記。

大手口より入城。三ノ丸の端から端まで続く登城坂を登りつつ、太閤死後に破却された石垣を見る。破壊されているとはいえ高石垣は健在。登城坂を登りきり、家康陣屋など城下町が一望できる東出丸へ。

Part2では三ノ丸を散策します。


肥前名護屋城で撮ったパノラマ映像 公開中!

<訪問記>

hizen_nagoya-1234東出丸より三ノ丸へ。三ノ丸櫓門跡。重要な防衛設備からか、破壊が激しい。

hizen_nagoya-1235三ノ丸虎口の櫓台と櫓門跡。なのだが、この壊されっぷり。城内随所にある説明板だが、ここにはないのも頷ける。

hizen_nagoya-1236三ノ丸内部へ。往時は周囲を櫓が囲み、中央に茅葺きの御殿が建っていた。

hizen_nagoya-1238三ノ丸。奥に見える石垣は本丸石垣。

hizen_nagoya-1240名護屋城址三ノ丸 石碑。正面は、本丸へ続く大手虎口と、虎口を守る櫓台跡。

hizen_nagoya-1241戦前に建てられた 名護屋城址 三ノ丸 石碑。三ノ丸の説明板が併設されている。

hizen_nagoya-1242s三ノ丸 説明板。城内唯一の井戸跡が残り、また玉砂利跡と認められる石が見られるという。今の道っぽい場所は砕石を撒いた「仮園路」とのこと。随所に建っている説明板に、こうして屏風絵の該当箇所の絵が写してあるのが非常に素晴らしい。

hizen_nagoya-1243本丸大手付近を守る2層櫓が建っていた櫓台跡。隅部が完全に破壊されている。石垣は隅部が肝要、とのことで、破却の際は隅部を壊す(ことで破城と見做す)ようだ。

hizen_nagoya-1246三ノ丸付近の散策は後ほどにして、まずは本丸へと向かおう。本丸大手虎口。S字に曲がるよう構成されている。

hizen_nagoya-1250本丸大手虎口。城内最大規模の枡形が築かれていた。

hizen_nagoya-1254本丸虎口枡形内部。木が生えていて狭く感じるが実際はかなり太い道。左側の石垣の上には2層の櫓が建ち、この正面あたりに巨大な櫓門が道を塞いでいた。

hizen_nagoya-1256名護屋城 本丸大手門の礎石。

hizen_nagoya-1257石段を上がって本丸内部へ。よく見ると石段自身もかなり破壊されていたのか、補修の跡が見られる。

hizen_nagoya-1258虎口の途中に、本丸と三ノ丸を隔てる石垣の上に建っていた櫓へ入るための雁木(石段)も残っている。

hizen_nagoya-1261本丸大手 説明板。平面図の赤色は「新規補充石垣」。やはり大手石段の殆どは破壊されていたようだ。発掘時の写真からは門礎石がバッチリ土の下から出てきているのが分かる。平面図から、出土した遺構は埋め戻さず、そのまま使用しているようだ。

hizen_nagoya-1262大手虎口より見た本丸。屏風絵を見ると所狭しと御殿等が建っていたようだが、今はこのとおり、ただ広い。

hizen_nagoya-1264本丸内部へ。説明板によると、玉砂利が敷いてあるのは発掘調査で玉砂利が出てきた所(庭?)、芝生は建物跡と思われる場所、とのこと(礎石や玉砂利はダミー。秀吉時代の”本物”は土の中に戻して保存)。整備工事は平成20年から現在も継続して行われているようだ。本丸虎口から最初に到達するこの広い場所は、大坂城御殿との比較等から「御広間または対面所」とのこと。

hizen_nagoya-1265名護屋城 本丸跡 本丸御殿跡の発掘調査 説明板。かなり小さい字でガッツリ書いてある。概要をザックリ説明すると、「芝生のすぐ下から当時の礎石や玉砂利が出土」「秀吉時代の御殿跡が見つかったのは名護屋城跡だけ」「ピンクの部分が建物跡」「名護屋城は指図(設計図)等が残っておらず屏風絵だけ」「檜皮葺きの書院造り風御殿と想定(屏風絵より)」「10棟以上の建物跡・庭跡等を平面復元すべく現在整備中(H20〜)」とのこと。

hizen_nagoya-1266玉砂利と芝生で「庭跡」と「建物跡」を平面復元しているが、芝生が玉砂利を侵食中。平面復元も大変だ。

hizen_nagoya-1268そして名護屋城本丸跡の中央にそびえ建つこの石碑は、巨大な「名護屋城址」碑。なんと東郷平八郎元帥 書。(写真では見えないが「城址」の文字の左あたりに小さく書いてある。現地で見てね)

hizen_nagoya-1270天守台は大手虎口からちょうど対角線上の一番奥に位置する。その付近の平面復元は整備中のようでブルーシートだった。奥の少し盛り上がったところが、天守台跡。

hizen_nagoya-1271天守台へ向かう途中、本丸の端に海に面して建っていた歌碑。「太閤が 睨みし海の 霞かな」昭和8年にココを訪れた歌人が詠んだ歌だとか。普段歌碑の類は載せないが「太閤」とあったため特別に。確かに太閤秀吉もこの海を睨みながら朝鮮および明国に想いを馳せていたのだろう。

hizen_nagoya-1273天守台へ。「名護屋城天主臺址」の石碑が建つ。臺は台の旧字。天守台の中央には玉砂利が敷いてある。

hizen_nagoya-1274a-1284天守台 説明板。屏風絵には地上6階地下1階の七層大天守が描かれており、想定では石垣から約30mほどの高さがあったとか。天守の礎石、穴蔵(天守地階部分)の石垣、穴蔵への出入口が出土。江戸時代にはここに古城を管理する「古城番」の番所が置かれたらしく、その石列なども見つかっている。

hizen_nagoya-1274b-1283天守台中心部の玉砂利(地階[穴蔵]は土間になっており地面は玉砂利だった)部分と、中央に並ぶ大天守を支えた礎石。

>> 肥前名護屋城 [3/4] へ続く。<<


訪問時期:2014年10月
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