原城 [4/4] 隅櫓と櫓門に守られた堅固かつ巨大な 大枡形虎口 跡へ。

原城前回までの 原城跡 訪問記。

本丸内のあちこちで展示されている「発掘された破却石垣の様子」を見て回る。隅部の石垣の上部を壊し、石垣の前に落としこんで、そのまま埋めてしまう手法を取ったようで、掘ったら当時の姿そのままに出てきたという。実際には一揆兵の遺体も一緒に埋めていたようで、人骨も大量に出てきたとか。400年の時を超えて成仏できれば。


<訪問記>

本丸南端の櫓台の上からリスタート。

harajo-0912a-0907櫓台の上から正面の谷を見下ろすと、大量に石垣石材が並べられていた。これも前述のとおり、付近から出てきた破却石垣の残骸を集めたものだろう。パンフの古絵図によると、その向こうは谷、更に向こうの森は「鳩山出丸」という曲輪のようだ。

harajo-0920sPart3でジックリ見た本丸虎口跡の、出口側から。実際はこんなに低い石垣ではなく、櫓門を備えた立派な石垣だったろうが、例によってガッツリ壊されているため、現存はこれぐらいの模様。虎口の入り口には櫓門の礎石と思われる石が並んでいる。

harajo-0921s本丸虎口跡の周囲の石垣の外側。手前は、本丸外側に連結する「大枡形虎口」にあたる。

harajo-0922大枡形虎口(手前)は巨大な曲輪とも言えるほどの広さだった。日本最大級だとか。枡形というからには周囲も石垣の壁で覆っていたのだろうが、破壊され尽くしていて、今はただの削平地のように見えてしまっていた。しかし出口に至る武者溜まり(凹部)・雁木(石段)跡などは、このとおり発掘調査によりその異形を露わにしている!

harajo-0924s大枡形虎口の出口へ向かう通路。玉砂利を敷き詰めてあったようだ。出口に向かう通路(パンフでは「武者溜まり」と表記)の周囲は石垣で強化された土塀あるいは多門櫓の土台があり、隅部は櫓台と思われる方形が検出されているとか。破却した石垣を通路に投げ込んでそのまま埋めていたのか、出てきたママを展示しているので非常に生々しい!

harajo-0927s大枡形虎口 出口通路。正面が枡形内。通路は左側に進む。右側の石垣の上には多門櫓か土塀があったか。

harajo-0928大枡形虎口 出口通路の隅部はこのとおり「方形」に形どられており、櫓が建っていたことを思わせる造りになっている。パンフの図面にも隅部は「櫓台跡」と記されていた。

harajo-0929櫓台の向こう側には土塀が続いていたのか、土台の上にあがるための雁木(石段)も僅かながら出てきている。

harajo-0931s大枡形虎口 出口通路の発掘整備された場所 全景。通路自体は手前に折れて本丸の外へと続いていく。

harajo-0932土台に上がって外を見てみると、草ぼうぼうの一角に「内馬場跡」の看板が建っていた。こちらは整備はされていない模様。

harajo-0934sそのまま土塀のあった土塁の上を歩いて本丸外側へ向かっていく。先ほどの部分に比べ、このあたりは埋め戻されたのか、こんな状況だった。

harajo-0935本丸出口の方まで来ると、こちら側も整備がされていた。大量の破壊された石垣の残骸と、奥にはそれを退けて整備した結果、出てきた本丸大手門の礎石。

harajo-0937s大枡形虎口 出口 本丸大手門付近の様子。一部何だか障子堀みたいな雰囲気を出しているが詳細不明。このあたりは地表面も高いので、発掘調査をしていないか、埋め戻したか、といったところか。

harajo-0938そして本丸大手門跡。巨大な櫓門が建っていたことを匂わせる礎石が整然と並んでいる。なお隅部にある石碑は遺構ではなく近年誰かが建てたものとのこと。

harajo-0941本丸大手門跡。高い土塁と石垣に囲まれ、狭い通路には堅固な櫓門が建っていた。

harajo-0942s本丸大手門前には「ほねかみ地蔵」と名付けられたお地蔵さんが鎮座していた。

harajo-0944sほねかみ地蔵 説明板。乱から130年後の1766年、寺の上人が当地の骨を広い供養すべく建立したという。原城跡一帯は乱後に破壊され、その後は長らく放置(あるいは立入禁止)されていたという。そのため破壊の際に遺体は埋められたとは言えその規模は数万体、恐らくあちこちにまだ骨が残っている状態だったのだろう。

harajo-0945本丸大手門跡から出て、城壁を見る。さすが大手門前、結構な大きさの石が積んである。

harajo-0952本丸大手門へ続く道の内側にも中々立派な石垣が作られていたようだ。一部かなり小さい栗石のような石で構築された石垣?のような部分もあるが、これは復元なのか、こう出てきたのか、よくわからない。

harajo-0953本丸大手門前には、番所でもあったのだろうか、低い石垣で作られた土塁があった。

harajo-0954a-0948本丸周囲の石垣を見て回る。壊されっぷりは本丸内部と同じだが、発掘調査あるいは整備が本丸外部にまで及んでいないためか、草ぼうぼうになっていて、じっくり見るには本丸内部のほうが良さそうだった。なお「城壁跡」説明板には「島原城を築城するためほとんどの石を運んだ」とあるが、発掘調査を踏まえた近年の研究では、島原城のために運ばれた石垣が一部だけで、ほぼ残っていたため、島原の乱でここが籠城地として使われた、また籠城の際にも堀切を造ったりといった普請をしていることから、島原城へ運ばれた石垣部分を補修したことも考えられる。どちらにしろ、乱の後の破城で徹底的に壊されてしまい、現状はこうなってしまったようだ。

キリシタン大名 有馬氏が築き、キリシタンの反乱「島原の乱」の舞台となった原城跡。長らく土に埋もれたままとなっていたが、近年の発掘調査および整備事業により、素人の城ファンでも見て分かる程の堅固な城っぷり&破壊ぶりが堪能できる。苛政と弾圧から逃れるべく蜂起した住民たちの怒りと悲しみに満ちた原城跡。島原鉄道の該当路線廃線に伴いアクセスが容易ではなくなったが、歴史的にも遺構的にも、ぜひ一度は訪れたい城跡だろう。


訪問時期:2014年10月
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原城 [4/4] 隅櫓と櫓門に守られた堅固かつ巨大な 大枡形虎口 跡へ。” への2件のフィードバック

  1. こんにちは。

    こうした徹底した破壊を行って改めて築城をやり直したのは、やはりキリシタン蜂起の敗北を印象づけるという象徴的な意味合いも強かったんでしょうね。

    1. kanageohis1964さん。まいどです。

      こうした内乱の鎮圧で動員される近隣大名にとっても、鎮圧に失敗したら思いっきり咎められるが、成功しても特に加増もなく、戦費・賠償金など完全に各藩持ち出しですから、そうした大名の不満をこれ以上膨らませないためにも、乱の再発はゼッタイにあってはならない!と徹底的にやったんでしょうね。幕府の苦悩もわかります。

      印象的な意味合いの破壊というと、徳川家康による”新”大坂城築城を思い出しました。

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