原城 [2/4] 本丸 池尻口門跡には天草四郎時貞の祈る石像が建つ。

原城前回までの、原城跡 訪問記。

本丸正面の駐車場から散策スタート。有明海を背にした本丸を孤島化する巨大な堀切を見て、破壊された無残な石垣跡を見ながら、本丸東の池尻口門跡へと向かう。

Part2では本丸を散策します。


<訪問記>

harajo-0854奥の石垣の割れ目あたりが池尻口門跡。石垣の上部が土塁になっていて一見「腰巻石垣」のようにも見えるが、実際は上まできっちり積まれていて、破城されたものだろうと思われる。

harajo-0855池尻口門跡へ。観光客用に緩やかな木製階段が設置されているが、よく見ると階段の下には当時のものと思しき石段が見え隠れしている。ここも発掘調査で出てきたもので、掘り出す前までは小石や土で埋められた状態だったとか。

harajo-0856a-0859池尻口門横の石垣。このあたりもガッツリ埋められた状態だったようだが、よく見ると門側の石垣が最下段を残して全て崩されている事が分かる。一揆軍による廃城再利用はもう懲り懲り、という幕府側の執念だろうか。

harajo-0864門を上がったところに「池尻口門跡」の看板があった。が、写真や図面のところが剥げてしまっていて読めないのが残念。こうして野ざらしになる場所に設置する看板は、デザインや読みやすさよりも、まずその耐久性が最重要だと、こういう看板を見る度に思わされる。門跡自体は、石や土で埋められていたが、発掘調査で掘り返した。埋め戻して保存するのではなく、発掘したままにしておいてくれたのは、お城ファンにとっては有り難い。階段の平場部分に礎石が見つかったとの記載があるが、現地ではどれが礎石かは分からなかった。

harajo-0864a-0874池尻口門の虎口。下から二段目に、石が置かれている。これが門の礎石か? 発掘調査してから時間が経っており、その後あまり整備をしていないからか、土嚢?の上にも土が積もり、正直石段がよくわからなくなっていたのが残念。石垣には草が生え、地面には土が積もる。遺跡といえども1年に1度は草刈り・土掃きなどの整備が必要では。

harajo-0857池尻口門をあがって、本丸を見る。かなり広いようだ。色々見どころがあるようなので、パンフを見ながら巡っていく。

harajo-0860池尻口門を越えてすぐ目の前にある、天草四郎の墓碑。今でも献花が絶えず、キレイにされている。説明板を見てみよう。

harajo-0861天草四郎時貞の墓碑 説明板。若干15歳で一揆軍総大将に担ぎあげられ、3ヶ月堅固するも、最後は討死。本丸で首を斬られ晒し首に、とあるが、実際は四郎の人相が幕府側に知られておらず、どの死体が四郎か分からなかった幕府軍は、本丸中央部にあった「立派な服装をした若い青年」の首を四郎と推定し、晒したという話を聞いたことがある。墓碑自体はここにあったものではなく、近くの民家の石垣から発見されたもので、四郎の母が建立したものだろうということだ。では墓碑を見てみよう。

harajo-0862a-0876天草四郎時貞の墓碑。現場では辛うじて(看板を参考にしながら)読み取れたが、写真で見ると立体感が無くなるからか、全く読めない。

harajo-0863四郎の墓碑の奥には、有明海を望む吉利支丹たちの像が、ひっそりと佇んでいた。いつ誰が置いたものかは分からないという。奥に見える島は「湯島」別名、談合島。乱勃発前、首謀者たちはこの島で会談し、一揆を決めたと伝わる。

harajo-0865池尻口門横にはまた別の墓碑が置かれる。

harajo-0866佐分利九之丞の碑。なんと幕府側(攻撃側)のサムライの墓だった。因幡藩士で、総攻撃時にここ本丸で倒れ、傍らにあった石に刀で自ら刻んだと伝わる墓石という。

harajo-0867s有明海を望む東端には、巨大な十字架の塔が建つ。

harajo-0868a-0873十字架の塔あたりから本丸を望む。右側に石像が見える。

harajo-0870島原の乱 反乱軍総大将だった天草四郎時貞の石像。巨石の上に建ち、神に祈る姿だ。

harajo-0871天草四郎時貞 石像アップ。島原の乱時は僅か15歳の青年だった。教養が深く、カリスマ性があったため、総大将として首謀者たちから担ぎあげられたとされる。

harajo-0872天に祈る天草四郎時貞。華奢な青年をイメージしていたが、なかなかに恰幅が良い。

harajo-0878天草四郎時貞の石像の更に奥には、変わった形の「原城跡」の碑が立っていた。パンフによると、島原の乱320年記念碑、とのことだ。乱が1637年なので、320年記念だと1957年(昭和32年)建立ということになる。まったく発掘調査もされていない、一面 畑だった頃か。もしかすると碑に使われている石材は付近で出てきた「破却された石垣」の築石かもしれない。

harajo-0879原城跡碑 のパネルをアップ。昭和32年に当時の長崎県知事が建立したようだ。島原の乱時の情勢や戦いの様子、劇的な最後について、なかなか読ませる文章で書かれている。「苛政に始まり、迫害に終わった」島原の乱。

harajo-0880本丸東端 池尻口門跡 付近の様子。

harajo-0883史跡 原城跡 説明板。原城跡の発掘調査が始まったのが平成2年なので、まさにこの看板が立てられた当時はまだ巨大な石垣や虎口等が埋まっている一大遺構という認識が無かった頃のもので、図面等もない。当時の写真(発掘調査前)を見てみたいものだ。

>> 原城 [3/4] へ続く。<<


訪問時期:2014年10月
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