此隅山城 [後編] 主郭西側は木々が伐採され周囲の支城が見渡せる。

此隅山城前回までの此隅山城 訪問記。

山麓の「いずし古代学習館」裏の登城口から登城。ルート上に山城ビギナーズのための遺構説明看板が随所に建っており、尾根道も退屈せずに登ることができる。

堀切2つ越えたところで主要部西部へ。西端の眺望が見える場所は木々が生い茂って見えなかったが詳細説明版あり。そして主郭へ。


<訪問記>

konosumi-0375主要部西部から主郭へ向かう。このあたりも尾根上に曲輪が段々に築かれた連郭式縄張りだが、無理して曲輪を直登しなくても、右側に迂回する道が造られているので、そちらを登ろう。

konosumi-0378主郭へ近づくに連れ、なかなかに厳しい岩道が顔を出す。ロープがあるのでなんとか登れるが、ここを攻めた秀吉軍は甲冑姿でここを登った??

konosumi-0379主郭直下の第二郭へ。主郭を取り巻くように、一部は帯郭的な構造にもなっているが、右奥(南側)へは藪藪で進めそうになかった。一息ついてから、大人しく主郭へ向かう。

konosumi-0382主郭への最後の坂道。この上が主郭。パンフの縄張図によると、この右側は帯郭になっていて、真っ直ぐ主郭の向こう側に出られるように描かれているが、しばらく進むと草ぼうぼうで断念。どちらにしろパンフにはこの奥の千畳敷への登城路はないと明記されているため、無理して行く意味は無い、かも。

konosumi-0383此隅山城 主郭へ到着。西側(右側)の木々が伐採されていて、夏でも城下の眺望が楽しめるようになっているようだ。

konosumi-0385此隅山城主郭跡 の標柱が建っていた。が、木製で、既に傾いているので、朽ちるのも時間の問題か。と思ったら奥にちゃんとした説明板が作られているようだ。

konosumi-0385a-0390此隅山城 主郭 全景。眺望は西向きになるので、晴れた午後に登城するとこのとおり見事に逆光。写真を撮るなら逆光に負けないレンズ必須。時刻は16時前。だいぶん日も傾いてきた。

konosumi-0386主郭に建つ「国史跡 此隅山城跡」説明板。ここまでに3箇所で看板を見たが(登山口・西曲輪・主郭)、全て文面が異なっており、読み飼いがある。

konosumi-0388主郭からの西の眺望。主郭周辺は木が刈られているが、山麓方面は下の木が邪魔で結局「御屋敷」「千畳敷」などは見えず。ただ往時のマルハゲ山城だと、まさに城下町を一望できる場所だっただろう。ちなみに手前の主郭地面が弧を描いているように写っているが、これは眺望を広く撮るために超広角レンズを使ったからで、本来は直線的(主郭は長方形)。パンフによると、見えている山々はほとんどが支城という。右から、安良城・福居城・伊豆城・三木城。

では主郭から北東方面にある袴狭登山口方面へと下山しよう。

konosumi-0392袴狭登山口方面へは、パンフ縄張図を見ると、第二郭から斜面を北東に降りる必要があるようだ。どこか道らしいものはないかと探していると「切岸」の説明板(写真左)の右側ぐらいに、なんとか降りれそうな場所を発見。といっても写真を見るとまったく分からないが、肉眼では、ここらあたりが「やや薄い藪」に見えた。

konosumi-0392a-0380降りる前に「城郭遺構 切岸」説明板を見る。せつがん、ではなく、きりぎし。この先は自然の斜面ではなく、どうやら人工的に削って急角度にした「切岸」のようだ。ここから降りる…のか?

konosumi-0393意を決して藪に入ると、藪と斜面の間にわずかに道らしき割れ目があった。降りる。

konosumi-0398しばらく進むと、遊歩道の標識があった。どうやらこの道で合っているようだ。第二郭の入口を何とかしていただきたく。

konosumi-0415このあたりも尾根に沿って連郭式で曲輪が続いているのだが、西部と違ってあまり整備されていないのか、藪やぶだった。写真を見ても何が何だかなので割愛。どんどん降りて行くと、竹林に突入。

konosumi-0417竹林を降り切ると「此隅山 登山口」の看板が出てきた。どうやらここが袴狭登山口、のようだ。学習館裏の入口と異なり、縄張図などの説明は無し、というか、城跡という説明すら無かった。あくまでハイキングコース扱い。

konosumi-0418登山口の看板からしばらく進むと、湿地帯のような場所に出る。足元に気をつけて進むと、両脇に藪と苔に覆われた石垣が!しかし此隅山城の歴史を考えると、城の遺構ではなく、後年のものだろう。

konosumi-0419袴狭登山口の湿地帯出口付近。藪やぶだが、両脇に石垣が見える。城遺構ではなく、後年のものか。

konosumi-0421湿地帯を出ると、こちらにも動物避けの簡易網柵が設置されていた。しかし登山口などの看板はここにはなく、ここから登ろうと来た人は少し開けるのに勇気が要りそうな雰囲気。

konosumi-0422網柵の遠景。手前にも石垣がある。あの柵は正直越えづらい。ここから先は道も舗装され、小さな集落の中となった。

konosumi-0423一応「此隅山 登山口 ↑」の看板。これを見て入って行った人は、あの網柵を見て「ここ?」と疑念を抱くこと限りなし。いずし古代学習館裏からのルートがオススメ。

ここから川沿いに西へ進むと、古代学習館に戻る。まだ開館していたので、少し中を見せて頂いた。入場無料。地元の発掘調査資料なども揃っていて、ゆっくり見ると楽しめそうな雰囲気。古代人の衣装を着て写真撮影できるコーナーもあった。

konosumi-0424a-0433いずし古代学習館 展示コーナー内部。とてもキレイ。古代学習館ということで、古代史に関する展示が多いが、一部「但馬守護 山名氏」に関する展示があったので、そこだけ紹介。

konosumi-0427但馬守護大名 山名氏と此隅山城。室町幕府の成立時、足利尊氏公に味方し活躍したことから但馬を与えられ、以後200年間 13代に渡って山名氏一族は但馬を治めた。6代 山名氏清の頃には山名氏一族が全国66カ国のうち11カ国を治める状況になり「六分一殿」と呼ばれた。しかしその後、応仁の乱などの戦乱で疲弊し徐々に弱体化、戦国時代になって織田信長の軍勢 (大将は羽柴藤吉郎) に攻められ此隅山城は落城した。その後 有子山城を築いて再起を図るも、再び織田軍に攻められ落城。同時期に当主も死亡し、息子は他国へ逃亡、こうして200年に渡る但馬守護 山名氏は滅亡した。嗚呼、栄枯盛衰。

konosumi-0429山名の城 此隅山城。縄張ジオラマが面白い。山の尾根という尾根に曲輪を築いている事が分かる。右側には、城ファンではない一般の方への「城の変遷」。お城=天守閣=姫路城みたいな白い高層櫓、というイメージを優しく是正するための、分かり易い説明。

panph-konosumiおまけ:出石城 観光案内所で配布していた、出石三名城のパンフレット。フルカラーA3サイズ(四つ折り)両面に説明書きや写真、詳細な縄張図が掲載されている。必携アイテム。


訪問時期:2014年10月
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