出石城 [後編] 城下町には大手門跡・西門跡・内堀が僅かに残る。

出石城前回までの出石城訪問記。

平成に建造された「登城門」を通って城内へ。前編では二ノ丸・本丸を散策。出石城のシンボルである二棟の隅櫓は残念ながら模擬建造物。本丸から見える稲荷曲輪の高石垣は壮観。

後編では最上段の稲荷曲輪、および、城下町に残る遺構を見て回ります。


<訪問記>

izushi-0023城域東側の石段、通称「稲荷参道」を上がる。稲荷曲輪の石垣はかなり苔むしていて、石垣本体が全く見えないほど。石段と石垣の間に川が流れているからだろうか。

izushi-0025稲荷曲輪。ここには出石城を建てた小出吉英が城内鎮護のために旧領岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものと伝わる「有子山稲荷社」が鎮座する(パンフより)。

izushi-0027稲荷曲輪にいは稲荷社だけでなく、井戸跡など遺構もチラホラ。

izushi-0024a-0007稲荷曲輪から稲荷参道を通って下山。かつては「御城坂」と呼ばれ、石段ではなく坂だった。明治期に石段と鳥居が整備された。稲荷参道に沿って各曲輪の石垣を見ながら降りていく。本丸隅櫓の下部には坂と曲輪を隔てる小さな川が石垣の下を流れる「暗渠(あんきょ)」状態になっていた。江戸期からこうだったのかは不明。

izushi-0272稲荷参道を一番下まで降りてきた。有子橋と名付けられた橋の外側は三の丸、橋の向こうは下の曲輪。

izushi-0272a-0270下の曲輪に建っていた、出石城跡 説明板。かつては三の丸の周囲を土塁と内堀を巡らせていたという。その内堀の一部は現在も辰鼓楼の近くに残る。なお説明板等で復元と書いている「東西隅櫓」は、江戸期の場所や外観を再現していないことから、正しくは復元ではない。

izushi-0273稲荷参道の入口に架かる橋の上から、下の曲輪の石垣および谷山川を見下ろす。谷山川は明治以降に新設された川で、現在この一帯は川の名前を取り「谷山川親水公園」と呼ばれている。

izushi-0271下の曲輪の石垣。一段下の犬走り的なスペースが、元の三の丸の地面? 石垣の側面に対し、表面の苔の無さ具合も気になるところ。積み直されたか、公園の顔ということで(ここだけ)整備されているのか。

izushi-0274有子橋と、稲荷神社の標柱。

izushi-0276有子橋を上がっていった先にある中世山城跡「有子山城跡」の看板が、有子橋の先に建っていた。江戸時代になって小出氏が出石城を建てた際、山上の有子山城は廃城となったが、特に破城されなかったため、石垣など多くの山城遺構が今も美しく残るという。詳しくは「有子山城跡 訪問記」へ。

城内の散策はここまで。ここからは、城下町に残る出石城の痕跡を見て回ろう。

izushi-0284城下町 出石の石碑。辰鼓楼の下に建っている。出石は、但馬文化発祥の地として古事記・日本書紀にもその名が見え、中世は”応仁の乱”で有名な”六分一殿”山名氏の本拠地、近世は小出氏・仙石氏の治める出石城下町として但馬随一の発展をした。今なお残る古い町並みにより「但馬の小京都」とも言われる。なお「小京都」と名乗る町は全国に50ほどある(小京都.jp 参照)。

izushi-0285a-0303sこちらが有名な「辰鼓楼」。出石城の遺構と思われがちだが、実は明治4年造(廃城後)。時計が付けられたのは更にその後のようだ。しかしその下の石垣は江戸期のもので、ここには当時「大手門」があった。道が直角に折れ曲がるよう虎口を形成していたが、廃城後に道を塞ぐ位置にあった石垣は破壊され、このとおり一本道となった。

izushi-0288辰鼓楼 説明板。廃城となった旧出石城大手門の石垣を利用し、市民に時を告げる街のシンボルとして作られた。建設当初はその名の通り太鼓を叩いて時を知らせていたが、明治14年に大時計が設置され、以降は時計台となった。なんとあの札幌時計台とともに日本最古の時計台だとか。

izushi-0289a-0299辰鼓楼と、出石城大手門石垣。大手門自体は、この石垣ではなく、道を隔てて向かい側(写真右)にあったようだが、今は全て壊されている。

izushi-0289b-0296s辰鼓楼と、出石城大手門石垣と、内堀。蔦がスゴい。

izushi-0290s橋を渡って内堀の外側から見る、辰鼓楼と大手門石垣と内堀。内堀には鯉がたくさん住んでいて、近くの店で鯉のエサが売られていた。城を取り巻くように築かれていた内堀で現在も残るのは、辰鼓楼の周りのここだけ。なおこの辰鼓楼が乗る大手門石垣の上には、古絵図には何も描かれておらず、道を隔てる位置の石垣の上には鉄砲狭間付きの土塀があった。

続いて、出石藩大老の家老屋敷跡へ向かう。西門近く。

izushi-0305a-0308家老屋敷 説明板。出石藩家老 仙石左京の居館跡で、左京は逼迫する藩財政を救うべく改革を断行するも「仙石騒動」と呼ばれる御家騒動に巻き込まれ、江戸で斬首となってしまった。その際に出石藩も57000石から3万石に減知となり、その後も長らく藩内で政争が続く事態となった。ちなみにここは左京屋敷の「跡」で、実際ここに建つ建物は左京邸ではなく、別の武家屋敷が移築されたもの。

izushi-0306では家老屋敷へ。立派な長屋門。

izushi-0309家老屋敷 長屋門 裏側から。

izushi-0312家老屋敷。一見平屋に見えるが実は中は二階建てになっているという。時間の都合(このあと有子山城〜此隅山城に登るため)で拝観せず。入場料100円。

izushi-0313a-0310家老屋敷 説明板のみ。家老級の高級武士の居宅が移築されたもので、仙石騒動の仙石左京の屋敷ではないが、この場所は左京の屋敷があった場所ということから「家老屋敷」と呼ばれる。「武家屋敷」でいいのでは?

続いて、家老屋敷の少し西側に残る「出石城 西門跡」へ。

izushi-0314a-0319右側に見える白壁は「家老屋敷」の壁。それに続いて建っている石垣が、西門跡。ここも道が直角に折れ曲がるよう虎口が形成されていたが、対となるもう片方の石垣は通行のじゃまになるため破棄され、片方がだけが残る。当時は道の向かって左側にも石垣があった。

izushi-0315西門跡と、それに続く「家老屋敷」の土塀、長屋門。

izushi-0317西門跡 石垣。石垣左側の看板が建っている当たりに、南北方向に西門があった。

izushi-0322出石伝統的建造物群マップ。江戸期〜明治期の旧態をよく残していることから、平成19年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

おまけ。

izushi-9999a-0282s出石といえば、出石そば。その名も「左京」にて皿そばを頂く。5皿800円、到底足りないので追加5皿600円、計1400円也。

panph-izushiおまけ其之二。麓の観光案内所で配布していた「出石三名城」パンフ。出石城跡、有子山城跡、此隅山城跡が詳細縄張図、写真、周辺地図、年表などとともに解説されている。A3裏表フルカラーが四つ折り。必携です。


訪問時期:2014年10月
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出石城 [後編] 城下町には大手門跡・西門跡・内堀が僅かに残る。” への2件のフィードバック

  1. こにるです。出石良いですね。
    すごく気に入っていて何度も行っているのですが,昨年も雪の降る前に行きましたよ。
    結構雨が降っていて有子山までは登れませんでしたけどね。

    1. こにるさん。コメント毎度です〜。出石、街の雰囲気も含めて、いいところですよね。私もずっと行きたかったんですが、普段は「公共機関で城攻め派」なので、電車の無い出石にはなかなか行けなくて。やっと「出石城行く」っていう知り合いがたまたま見つかって同行してきました。
      雨だと有子山城のあの坂道は危険すぎますね。
      有子山城と此隅山城のレポート、今週中ぐらいには書きます。ではまた!

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