前回までの名古屋城 訪問記。
大天守内で城下町テーマパークエリアや巨大ジオラマを堪能したあとは、本丸北側へ移動。大天守台の北東端に残る加藤清正公家臣の刻銘と、米軍無差別爆撃で失われた初代大天守の礎石を見る。
続いて大天守の周囲を巡りながら様々な天守の姿を見る。
<訪問記>
本丸大天守を、本丸北側 御深井丸 東側から見る。間近で見る、そびえたつ大天守はすごい迫力。千鳥破風から天守台に沿って垂れるのは、銅板で覆われた雨樋。
内堀に沿って西へ。大天守 北西端には、大天守の石垣に関する説明板がある。「扇の勾配」の説明がされている。美しいだけでなく、石の重みや土の圧力が分散され、はらみにくいという特徴がある。
扇の勾配 石垣の前から大天守を見る。すごい迫力! ただ近すぎて、広角レンズ(APS-Cで14mm、換算21mm)でも横構図では全体像が収まらず。魚眼持っていけばよかった。
縦構図にするとこのとおり全景が写った。すごい迫力!だが、やはり近すぎて、3層目以上の窓が全く見えない。内堀は水が抜かれているが、当時は水が張られていたようなので、この姿は当時の侍たちは見られなかった。
内堀に沿って進みながら大天守の様々な姿を…見に行く前に、本丸北西側の曲輪「御深井丸」(おふけまる) を少し散策。正面に見えるのは御深井丸展示館。左奥へ道なりに進む。
まず見えてくるのは、このいかにも明治時代な建物。戦時中、米軍の攻撃に備えて襖絵など文化財を疎開していたという「乃木倉庫」。レンガ造りの頑丈な建物で、爆弾が直撃しない限り大丈夫そうな印象。実際、中の文化財ともに戦争を生き抜いた。入口の右側に説明板が立っているので見に行ってみよう。
乃木倉庫 説明板。陸軍大将 乃木希典(のぎまれすけ。日露戦争で有名、明治天皇崩御で殉死)氏が 名古屋鎮台 在任時代に建てられたため乃木倉庫と呼ばれる。当初は弾薬庫だったが、太平洋戦争時は文化財の保管庫となり、大量の襖絵・障壁画・天井画などが疎開され米軍の無差別爆撃にも耐えた。今は城壁だが当時はレンガむき出しだった模様。
更に御深井丸の西北端へ。三層櫓が現存する。「西北隅櫓」通称 清須櫓。あの清洲城の天守を移築したとも伝わるとか。実際 解体修理工事の際に、清州城築城と同時期の墨書きがなされた木材が見つかったという。外側には窓がずらりと並んでいるが、内側はほぼ壁のみのシンプルな姿。
西北隅櫓 説明板。説明板には余り詳細に書かれていないが、愛知県HPによると、解体修理の結果、高欄を伴う櫓状の健在を再利用したものが分かり、清州城小天守を移築したものという伝承を否定すべきものではないことが判明したとか。墨書きにより、1619年完成と判明。あの熊本城 宇土櫓に次ぐ規模の三層櫓とのこと。中に入れないからか、ほとんど周りに人はいなかった。
西北隅櫓 破風部アップ。天下普請らしく、鬼瓦には葵御紋。
御深井丸から本丸へ戻る。段々と木々の隙間から大天守が見えてくる。かっこいい! ということは西北隅櫓の3階から大天守を見ると、なかなかの姿が望めそう。
大天守の前まで戻ってきた。ふと内堀越しに天守台の石垣を見ると、焼けて割れた跡がビッシリ残る。燃えた建材が内堀に崩れてここにもたれ掛かったのだろうか。
ちなみに、御深井丸の西側は大きな素屋根が設置されていて、中では復元御殿用の木材加工がなされていた。見学もできるようだが、今回はパス。往時は武具弾薬庫・塩蔵などがずらりと並んでいたとか。
木材加工場の前あたりからは、木々の向こうに大天守の正面の姿が見える。右側には小天守、大きさの差がかなりあることがよく分かる。
大天守と小天守の天守台の間は、先ほど通った小さな櫓台が渡されている。櫓台の上には土塀が築かれ、不明門で見たのと同じく槍の穂先が並べられた「剣塀」仕様になっている。
剣塀 説明板。
このあたりには、大天守の姿がよく見えるからか、展望場所のような木組みが設置されていた。大天守をバックに記念撮影もバッチリ。その展望台から撮影。
展望台付近から、大天守と反対側・南方面を見る。本丸南西端には、現存の西南隅櫓が見える。そして、堀底をよーく見ると、、、鹿が放たれている。
名古屋城 内堀に住む鹿2頭。なんと江戸時代にも飼われていた記録があるとか。今の鹿は、戦後に客寄せのために動物園から鹿3頭を連れてきて、内堀で飼い始めたことが始まり。堀の雑草を食べて育ち、一時期は50頭以上に増えたこともあったが、堀の工事などで生活空間を狭められ徐々に頭数は減り、現在はわずか2頭、しかも母子とのことで、このままでは全滅必至という。名古屋城には内堀以外にも空堀はたくさんあり、しかも草が沢山生えている場所もあるのだが…。
天守台は、本丸北東端に、少し飛び出る形で設置されていることがよく分かる構図。右側の石垣が本丸本体。
御深井丸と西之丸の間は、外堀から伸びてきた細い堀部分。ここのように細長い堀が曲輪を分断している部分を名古屋城では「鵜の首」と呼んでいる。鵜の首 説明板。本丸の周囲には往時、東西南北にそれぞれ鵜の首があり(南は2つあったので計5つ)、本丸周囲の曲輪をそれぞれ区切っていたが、現在はここ西および北の鵜の首だけが残り、東(埋門跡)と南(清正公銅像横)は空堀化、そして南のもう1つ、大手馬出 西側は埋め立てられてしまった。
こちらが西の「鵜の首」部分。
更に南へ下って、大天守を見返す。これぐらい下がるとやっと最上階の窓までがしっかり見えてくる。
更に下がると、今度は本丸周囲に植えられた松が被ってきて見づらくなる。うーん、難しい。
目の前には西南隅櫓。現在は本丸内からは(復元御殿の奥にあるので)見られない模様。外から見よう。
西南隅櫓と大天守。東南隅櫓(Part2参照)とは、唐破風の位置などが異なる。
西南隅櫓 説明板は、内堀を隔てて西南隅櫓のちょうど真南あたりに立っている。看板と櫓のツーショット。なんと1891年(明治24年)の濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが大正になって修理復旧されたという。
ふと、足元を見ると、マンホールのフタの中央に名古屋城 大天守。記念に一枚。
西之丸へ。西の丸展示館の前に大木があった。かなり後ろまで下がって全景を撮影。手元のパンフには「カヤの木」と書いてある。木の前には「名古屋城之榧」と彫られた石碑も建つ。
天然記念物 名古屋城のカヤ 説明板。推定樹齢600年の大木。なんと慶長20年(1615年)、尾張藩(尾張徳川家)初代藩主 徳川義直が大阪夏の陣に出陣する際にこのカヤの実を食べたと伝わるとか。すごい。
>> 名古屋城 [8/8] へ続く。<<
訪問時期:2015年1月
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