会津若松城 [9/9] 満身創痍の白虎隊士が最後に辿り着いた飯盛山へ。

会津若松城前回までの会津若松城 訪問記。

会津藩 松平家の保養所(別荘)だった回遊式大名庭園、御薬園を訪問。戊辰戦争時には西軍の傷病兵治療所になったりもしたが、破壊されることもなく無事 江戸時代の大名庭園の名残をよく残している。園内の御茶屋御殿ではお抹茶を頂いた。

Part9では、会津戦争の悲劇の地・白虎隊が眠る飯盛山へと向かいます。


<訪問記>

aidu-9830iimori御薬園を出て、街道をひたすら西へ進む。飯盛山まで後2.0kmの看板発見。2kmというと遠い気がするが、レンタサイクルだとあっという間の距離だ。

aidu-9832御薬園から約10分で、飯盛山 入口へ到着。時刻は16時過ぎ、随分西日になってきたようだ。奥の山が飯盛山。その前には、観光地になっているからか、お土産屋お食事処がズラリと並ぶ。観光地とはいえ、一応お墓なんだけど… と少しモヤモヤ。

aidu-9833飯盛山 入口に立つ、看板。飯盛山は、白虎隊の自刃の場所と墓地である。

aidu-9834お土産街をスルーして、飯盛山への参道へ。長い石段に目が行くが、右側にエスカレータがある。飯盛山動く坂道、なんて書いてあるが、なんと、このエスカレータ、有料! 250円。「石段を、あがるのは、本当に、大変です!」みたいな放送が掛かっていた。苦笑。

aidu-9834a-9836飯盛山案内図。お金払ってエスカレータに乗らなくても、目の前の急な石段を登る大変そうなルートではなく、迂回しながらゆるりと参拝できる「らくな参拝順路」が示されていた。このコースで参拝しよう。

aidu-9835史料館 白虎隊記念館。中は遺品・写真などが多く展示されているそうだが、時既に16時を過ぎており、時間の関係で今回は泣く泣くパス。家老西郷頼母の武家屋敷もパスしたし、二ノ丸三ノ丸西出丸などいろいろ見てない場所も多いので、やはり会津へはまた来ないと!だ。

aidu-9837白虎隊記念館の前で、恐らく眼下の会津鶴ヶ城を見つめる、白虎隊士たち。の像。

aidu-9838では参拝ルートへ。鳥居の前に、奥州會津飯盛山本参道、と書かれていた。元々は、あの正面の石段はなく、こちらのルートが本来の参道だったようだ。石段は、もしかして、エスカレータの営業用? 石段ではなく、なだらかな坂道になっている。

aidu-9840坂道を上がると小さな池と、その奥に洞窟が見える場所に来る。ここは「戸ノ口堰洞穴」と呼ばれ、戊辰戦争時に白虎隊士がここ飯盛山へたどり着いたときに利用した抜け道だという。説明板によると、戸ノ口堰は全長31kmもの、猪苗代湖から会津盆地へ水を引く用水堰で、1623年から工事がスタートし、18年かけて完成、その後1832年に大改修を行い、その際に眼前の弁天洞穴(150m)を掘ったという。戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴とのこと。これらの話は、自決後蘇生し、昭和まで生き延びた旧白虎隊士 飯沼貞吉氏の回顧録による。説明板の裏に見える縦長の岩は戸ノ口堰石碑。

aidu-9841戸ノ口堰洞穴から先は、短いながらも急な石段を少し登る。

aidu-9843白虎隊十九士の霊を祀る宇賀神堂。

aidu-9844sそして特徴的なこの建物は「さざえ堂」。1796年に建てられた、六角三層の御堂で、正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」、当時ここにあった正宗寺の建物だったとか。中は螺旋階段になっていて、登る過程で西国三十三ヶ所巡りができる仕組みになっているとか。400円で入れるようなのだが、例によって時間の関係でパス。

aidu-9842sさざえ堂 入口。力強く波打つ彫刻に、龍が巻き付くという、すごい造形。次回来訪時はぜひ細かく見てみたい。

aidu-9845では さざえ堂の奥から、白虎隊墓所へ向かおう。参道はこの先の階段の上。墓所まで約1分、どうぞごゆっくり。

aidu-9846a-9857墓所のある山頂へ到着。左奥の一角が、墓所のようだ。

aidu-9847ここが、白虎隊士十九士の墓所。まずは、左側に設置されている説明板を拝見しよう。

aidu-9848白虎隊士の墓 説明板。自刃した隊士の遺骸は、西軍(新政府軍)により手をつけることを禁じられていたそうで、自害後そのままにされていたようだ。そして何と三ヶ月後!、不憫に思った村人たちの手により密かに持ちだされ仮埋葬され、その後ここ自刃地に改葬されたという。

aidu-9849白虎隊士十九士の墓。墓石も十九並んでいる。今も花が絶えることはないようだ。合掌。

aidu-9850そして墓所の前には、鷲が乗る大きな塔。説明板によると、ローマ市寄贈の碑とのことで、白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市民の名をもって昭和3年、この像が寄贈されたという。なんと、火山噴火で埋没滅亡したポンペイ遺跡から発掘された神殿の柱!で出来ているという。表面にはイタリア語でメッセージが刻まれ、裏面にも「武士道の精神に捧ぐ」と彫られていたが、こちらは何と大戦後に占領軍の命により削り取られた!という。ムッソリーニが絡んでいるため、とのことだが。。。

aidu-9850a-9855sでは、最後に墓所から少し先にある、白虎隊士自刃の地跡へ。この石段を降りた先が、そう。

aidu-9851遥か遠くの会津鶴ヶ城を眺める白虎隊士の像があるこの場所が、白虎隊士二十名が自刃した場所という。遺骸は三ヶ月もここに放置されていたのだから、間違いなくここだろう。像の左側には、かすれてしまって読みづらいが、白虎隊士自刃之阯、の石碑もある。

aidu-9852別角度から。ちなみに、白虎隊士の像が見つめている先に、鶴ヶ城天守があるという。

aidu-9853白虎隊士自刃地 説明板。蘇生した隊士飯沼貞吉氏が晩年に語り残した記録により、白虎隊の自刃までの詳細な事実が伝わっている。よく聞く「鶴ヶ城落城誤認による悲観の自決」ではなく、「未だ落城していないが誤って敵に捕まっては主君・祖先に申し訳がたたないため、武士の本分を明らかにすべく潔く自刃」というのが、真相だったようだ。時代の違いとはいえ、わずか16歳の少年たちが自ら考えた結論かと思うと、ひたすら悲しい。

aidu-9854白虎隊士自刃の地から見下ろした、会津城下。今は街に埋もれてしまっているが、当時はここからの距離でも鶴ヶ城は目立っていたことだろう。

この写真では分かりづらいが、現地では肉眼で確かに鶴ヶ城は見えていた。

aidu-9854as鶴ヶ城アップ。左の高層マンションの、少し右側。上の写真の高層マンションの位置から鶴ヶ城の位置を想定していただきたい。

会津若松城(鶴ヶ城)は戊辰戦争で大被害を被り、戦後にほとんどの建造物が取り壊されてしまったものの、城内城下含め、多くの遺構が残っている。今回めぐった「会津若松城(内堀内)」「会津松平家墓所」「御薬園」「飯盛山」の最短コースでも、4時間半ほどかかった(昼食休憩ナシ)。他にも、城の二ノ丸〜三ノ丸・西出丸や、城下に残る門跡・土塁跡、移築された御三階櫓、武家屋敷(西郷頼母邸)、戊辰戦争に絡む歴史スポットなどなど、まだまだ見どころがある。まさに街中が歴史スポットだった。また行きたい!会津!

※ 会津若松城での360°全天パノラマ映像も公開しています。


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>

訪問時期:2014年10月
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会津若松城 [9/9] 満身創痍の白虎隊士が最後に辿り着いた飯盛山へ。” への2件のフィードバック

    1. 松山様。コメントありがとうございます。
      詳しいことが分からず判断できかねますので、もう少し情報をお願いします。
      動画とはYoutube等に投稿される無料配信動画ですか? どういった内容の動画ですか? どの写真を使おうとされていますか?(ファイル名)

      詳細が分かれば(公序良俗に反する動画などで無い限り)基本的には下記条件を満たしていただければ写真の二次利用を許可しております。
      ・二次利用先 [今回は動画] への出典の明記(当サイト名およびURL)
       ※例えばYoutubeであれば、動画内および動画下の説明欄への記載
      ・完成しましたら公開先(URL等)をご連絡下さい
      ・完成品確認後に弊サイト内に写真提供の旨を記載します

      なお有料動画の場合はまた話が変わります。

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