会津若松城 [5/9] 本丸内を散策しながら様々な角度から天守を見る

会津若松城前回までの会津若松城 訪問記。

大天守から奥へ進むと、売店(100名城スタンプあり)、八重の桜コーナーを経て、木造復元された南走長屋と干飯櫓へ。鉄御門を出て、帯郭からの大天守を見る。カッコいい〜。しびれます。


<訪問記>

aidu-9612鉄御門から帯郭へ出て、大天守を見上げるの図。この角度から見る会津若松城の大天守も、なかなかの勇姿。天守台の野面積み石垣(16世紀末の蒲生氏郷公時代)と、その横に繋がる長屋(続櫓)の打込み接ぎ・切込み接ぎ石垣(17世紀中旬以降の加藤氏時代)との対比も面白い。

aidu-9612a-9617少し角度を変えて。少し変えるだけで表情が結構変わる。

aidu-9612b-9629帯郭から見る、大天守と続櫓(走長屋)、鉄御門のトリオ。昭和の外観復元。

aidu-9615ここ帯郭の一角には、上杉氏が会津を領していた頃に設置されていた「謙信公の仮廟所跡」が残る。説明板によると、1578年に当時の上杉氏の本城・越後春日山城で亡くなった謙信公は、甲冑姿のまま瓶に入れられ漆で固められる。その後 上杉氏はここ会津に移封となり、謙信公の墓所も移され、その際「城内の西南隅の仮殿に納められた」とあるそうだ。上杉氏時代の場内の様子は分からないそうだが、当時の城内が内堀の中を示すのであれば、ここに出てきた蔵跡がその仮殿の可能性が高いとのこと。関ヶ原後の1601年、上杉氏は徳川家により米沢へと移され、あわせて謙信公の墓所も米沢城内へ移された(参考)。

aidu-9615a-9614謙信公墓所のあった仮殿跡とされる、礎石等の遺構。結構広い。

aidu-9634再度、本丸内へ戻る。本丸御殿跡の芝生広場。ひろーい。

aidu-9637芝生広場の周囲を回るように、本丸の奥(天守と反対側)へと進む。

aidu-9638s本丸はかなり広い。

aidu-9640天守と反対側の、本丸南東端へ。天守ほど派手な場所はないが、色々遺構もあるようなので順に見ていこう。まずは「荒城の月 碑」。左奥の石碑がそう。「荒城の月」というと滝廉太郎、豊後岡城跡が有名だが、あっちは作曲の方で、こちらは作詞の方。「春高揚の花の宴〜」。説明板によると、その歌詞は仙台青葉城と会津鶴ヶ城をモチーフに作ったと本人(土井晩翠氏)が語ったという。

aidu-9642荒城の月碑は本丸を囲む土塁に建てられている。その土塁の上には、かつて幾つか建っていた櫓台跡が残るようだ。まずは土塁の上へ。

aidu-9644月見櫓跡。説明板によると、城下南方の物見櫓、本丸南側の石垣への横矢掛けに重要な役割を担っていたという。櫓にかかる月がひときわ美しかったことから「月見櫓」と風流な名がつけられたが、実際は武器庫だったという。

aidu-9648その少し北側には、もう一つの櫓台跡「茶壺櫓」がある。先ほどの月見櫓よりは少し低めの石垣台。

aidu-9649茶壺櫓 説明板。こちらは月見櫓とは異なり戦いのための櫓ではなく、この下にある茶室で用いるための茶器が納められていたという。しかし場所的には更に北方にある本丸と二ノ丸を繋ぐ廊下橋が一望できることから、側面の守りとしても重要だったようだ。

aidu-9651説明板にもあった、廊下橋横の石垣。高さ20m。野面積みだが、力強い天守台とは異なり、整然と積まれた様は確かに美しい。奥に見える赤い橋が本丸と二ノ丸を繋ぐ「廊下橋」。その名からして、当時は多聞櫓のような長屋が乗った橋だったのだろう。(参考:廊下橋 Google画像検索

aidu-9653再度 土塁を降りて本丸へ。本丸御殿のあった芝生広場越しに見る大天守。美しい。

aidu-9655sちょっと遠いのでズーム。きれいな層塔型なんだけど、巨大な破風部屋が印象的。

aidu-9657さらにズーム。

aidu-9659先ほど訪れた、本丸南東土塁上にあった「茶壺櫓」の下にある茶室「麟閣」。下見板張りの土塀で囲まれ、立派な山門を持つ茶室。戊辰戦争の後、茶室は別の場所に移設保存されていたが、平成になってここに戻されたという。

aidu-9661茶室麟閣 説明板。千利休の息子 少庵が、蒲生氏郷公によって会津に匿われている際に建てたと伝わる茶室とのこと。観覧料200円、中では有料で抹茶も頂けるようだ。ここはひとつ、頂きにあがろう。

aidu-9662ががーん。改修工事のため休園中。(訪問時 2014年10月頭)

aidu-9663茶室 麟閣 山門外観。門は堅く閉ざされていた。。。

aidu-9666茶室麟閣より少し北へ。天守がよく見える場所あたりに、會津鶴ヶ城御本丸之圖 看板あり。

aidu-9666a-9665明治5年に撮られた、戊辰戦争で傷ついた鶴ヶ城天守の写真。天守はしばらく修理もされず雨ざらしになっていたが、明治7年に取り壊された。

aidu-9667御殿を挟んで天守の反対側には、三階建ての櫓「御三階」が建っていた。御三階の建物自体は戊辰戦争でも焼け残り、城下の阿弥陀寺の本堂として移築されたという(未訪問)。今は礎石のみが残る。

aidu-9667a-9672御三階跡 礎石群。

aidu-9668御三階跡 説明板。阿弥陀寺に移築され現存する本堂と、ここにあった頃の御三階のイメージ図とはえらく異なるようだ。現在、往時の姿で復元すべく、発掘調査等が行われている。会津若松市、ヤル気!

>> 会津若松城 [6/9] へ続く。<<


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>

訪問時期:2014年10月
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