会津若松城 [1/9] 城下町に残る蒲生氏郷公・忠郷公の墓所へ

会津若松は室町時代までは黒川と呼ばれ、葦名氏により黒川城が建てられていた。葦名氏は戦国時代に伊達政宗に滅ぼされ、その後 豊臣政権になると蒲生氏郷が入府、名を黒川から若松へと改め、近代城郭を築いた。当初は望楼型天守だったが江戸期になり現在と同型の層塔型天守が建てられた。会津藩は当初 藩主の変遷が多かったが、保科氏が会津松平家として藩主となって明治まで治めた。維新時の戊辰戦争では幕府軍の拠点として激戦地となり、天守は大砲等により相当の被害を受けるも落城せず、開城により終結した。天守等は明治に破却、1965年に鉄筋コンクリート造りで外観復元天守が再建された。2011年に江戸期と同じ赤瓦に吹き替えられた。

会津若松城<基本データ>
●名称: 会津若松城 (別名 鶴ヶ城)
●所在: 福島県会津若松市 (マップ)
●築主: 葦名直盛 / 蒲生氏郷
●築城: 1384年 / 1593年
●遺構: 石垣、堀、曲輪
●関連: 会津鶴ヶ城HP

会津若松城での360°全天パノラマ映像も公開しています。


<訪問記>

aidu-9401a-9406s会津若松城への旅は、JR会津若松駅からスタート。お城風の駅舎。現在お昼の12時。半日かけてお城だけでなく城下町をじっくり巡ろう。駅前ロータリーには白虎隊の石像がある。白虎隊は会津の歴史でも大きな部分を占めているので知らない人は予習して行こう。参考:白虎隊Wikipedia

aidu-9402駅前にあった近隣の史跡マップ。左が北。お城は駅から南へまっすぐ行くだけだが意外と遠い。レンタサイクルを駅で借りて乗って行くことにする。駅とお城の間には蒲生氏郷公の墓があるようだ。城の東側には藩主庭園跡の御薬園、更に東には(地図には載ってないが「武家屋敷」の更に奥)藩主松平家墓所、そしてその北には白虎隊が自刃した飯盛山がある。

aidu-9408sではまず会津若松城へ向かおう。地下道への入口が、櫓風の造形。該当も石灯籠風。

aidu-9409a-9412会津若松駅から一路南へ向かう途中、蒲生氏郷公の孫・会津藩二代目藩主 蒲生忠郷公の墓所があったので立ち寄り。住宅街の一角にある巨木の麓がそう。

aidu-9409b蒲生忠郷公 墓所。元々は墳墓で、その跡地に五輪塔が建てられている模様。説明板を見てみよう。

aidu-9410蒲生忠郷公 墳墓 説明板。元々は円形状の墳墓だったが、昭和44年の区画整理事業!により破壊されてしまったそうだ。歴史遺産よりも発展が重視されていた時代か? そして、別の地に建てられていた忠郷公供養のための五輪塔を、墳墓があったこの地に移設して祀ったとのこと。忠郷公は初代藩主の死去によりわずか10歳で二代目藩主となるも、25歳で病没。世継が居なかったため断絶の危機に際するも、忠郷公の母が秀忠の妹君(家康の娘)という名門であることから特別に弟を跡継ぎとして認め、蒲生家は会津から伊予松山へと移封となった。会津60万石→伊予松山24万石。

aidu-9411s忠郷公 五輪塔。合掌。周囲は完全に住宅街。会津のお殿様のお墓の真ん前に建つ家って、なんだかすごい。

aidu-9418a-9433忠郷公の墳墓跡は住宅街の真ん中にあったが、初代 鶴ヶ城城主で、会津藩祖の蒲生氏郷公の墓所は、もう少し城に近づいた商店街の脇にある。商店街に建つこの石碑が目印。ここを左に曲がった先にある「興徳寺」の境内に墓所はあるという。石碑の前に自転車をとめるのはやめよう!

aidu-9419こちらが興徳寺 入口。

aidu-9420入口は分厚い木戸が設置してある。扉には徳川家の葵御紋。氏郷公は豊臣恩顧武将だが、息子で初代会津藩主となった蒲生秀行が徳川家康の娘を正室としたため、彼も含めて徳川氏一門という扱いなのだろう。

aidu-9421a-9430興徳寺 境内。この石碑の奥が、氏郷公墓所。

aidu-9421b-9425入口の板塀には、蒲生氏郷公の説明と絵図、燕尾形兜の写真が飾ってある。実物は岩手県立博物館に所蔵。なぜ会津の氏郷公の兜が岩手に? 盛岡藩 初代藩主 南部利直公が蒲生氏郷公の養女を正室に迎えた際に引き出物!として南部家に渡り、そのまま現在まで伝わったことから、岩手にあるとのこと。

aidu-9421c-9429蒲生氏郷顕彰碑 説明板。近江日野→伊勢松坂→陸奥会津。この地を若松と名づけたのも氏郷公。また利休七哲の一人とされ、利休切腹後は千家を守るため一子を庇護し復興させた。しかし朝鮮出兵で肥前名護屋城に赴いた際、病にかかり、僅か40歳の若さで没した。

aidu-9421d-9431古文書に残る、氏郷公が建てたとされる七層の鶴ヶ城大天守がモデルと思われるお城型の供養塔。しかし当時は望楼型天守で、江戸期に再建された際に今の層塔型になった。ちなみに七層は「幾重にも連なる」という意味合いもあるため、本当に七層だったかどうかは不明とのこと。

aidu-9421e-9432氏郷公 辞世の句 歌碑。限りあらば 吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風。いずれは散ってしまう花の命なのに何故春の山風はこんなに早く散らせてしまうのか。早死してしまう自分が相当悔しかった気持ちがよく伝わる名句とされている。

aidu-9423蒲生氏郷公 五輪塔。下から地水火風空と刻まれている。

aidu-9424五輪塔 説明板。死去の翌年に息子の秀行によって建立された。本墓は京都で、ここは遺髪のみが埋められた分墓とのこと。

では墓所を後にして商店街をさらに南へ進み、鶴ヶ城へ向かおう。

aidu-9434s鶴ヶ城の周りは今も堀で囲まれている。堀には幾つかの橋が架かっており、いくつかの入城ルートがあるようだ。今回は北出丸を経由して城内へ入るルートをとろう。この道を右に曲がる。「鶴ヶ城入口」の標柱が目印。

aidu-9435堀の手前には、鶴ヶ城跡の石碑と簡易な説明板がたっている。

aidu-9437堀の向こうは北出丸。ぐるっと回って土橋を経由して渡ろう。

aidu-9439現在鶴ヶ城会館となっているこの場所は、桜ヶ馬場跡。戊辰戦争時にはここの広場は軍馬の練習場だったという。往時城内には桜はここにしか植わってなかったとのこと。現在の城内に植わる多くの桜は明治41年に植樹されたものという。

aidu-9441この先が北出丸。巨大な直方体の石で虎口が形成されている。

aidu-9443北出丸 内部。蒲生氏の後に会津へ入った加藤氏により、従来は小さな馬出しだったこの場所を北出丸に改築。本丸の北側を守る拠点とした。北出丸は東を伏兵郭、南を本丸、西を西出丸に囲まれた場所で、ここに侵入した敵は三方から一斉攻撃を受けたという。別名「皆殺し丸」。

aidu-9445北出丸から本丸へと架かる土橋「椿坂」。

aidu-9446北出丸の出口にあった鶴ヶ城 城内絵図。北出丸から西出丸へ向かう道もあるようだが、こちらは後ほど訪れるとして、今は太鼓門跡を通って本丸・天守へ向かおう。

>> 会津若松城 [2/9] へ続く。<<


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>

訪問時期:2014年10月
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