二本松城 [4/6] 発掘復元工事で山上に蘇った、立派な本丸石垣へ。

二本松城前回までの二本松城 訪問記。

三ノ丸を越えて回遊式庭園 風の場所へ。

茶亭洗心亭、丹羽神社、霞ヶ城の傘松を見て、本丸目指してどんどん山道をあがっていく。


<訪問記>

nihonmatsu-9284少年隊の丘、到着。いくつかの石碑が建っている。

nihonmatsu-9285少年隊の丘 説明碑。二本松少年隊士を弔うため、昭和十五年(紀元二千六百年)に建てられた顕彰碑に続き、昭和43年(明治百年)この副碑を建立、さらにここを少年隊の丘と名づけたそうだ。

nihonmatsu-9287二本松少年隊 顕彰碑。左右にはいくつかの説明板や石碑が建っている。

nihonmatsu-9288二本松大壇口 弔少年戦死墓。漢詩が彫られている。二本松駅の西側にあたる大壇口と呼ばれる要衝での激戦において、二本松藩の少年兵の多くが戦死しており、彼らを弔うべく建てられた墓碑。なお二本松少年隊という呼び名は当時のものではなく、後日名付けられたもの。

nihonmatsu-9289二本松少年隊の勇士を描いたプレート。

nihonmatsu-9290裏面には協賛者や経緯等が彫られていた。碑は昭和六十三年に造られたものだが、先ほどの漢詩は旧二本松藩儒学者の子で文久二年(1862)生まれの学習院大学教授の作だとか。

nihonmatsu-9291二本松少年隊顕彰碑 説明板。ここが少年隊の丘と名付けられた由来が書かれている。戊辰戦争以前までここにあった砲術道場で学んでいたという。なお顕彰碑の裏面には木村銃太郎始め少年隊士62名の名前が刻まれているとあったが、薄くなってしまっており読めなかった。

nihonmatsu-9292ちなみに「少年隊の丘」と名付けられた曲輪はもともと「新城舘」で、会津の支城時代(蒲生氏時代)に置かれていた城代2名がそれぞれ城の東と西に館を構えており、その西側に当たる場所だとか。発掘調査でその頃の遺構が出土しているようだ。また中世二本松城時代の遺構も見つかったとか。歴史的に重要な場所のようだが、すべては土の中。

nihonmatsu-9294少年隊の丘を越えると、本丸へ向かう前に、今も石垣が残る搦手門跡を見ていこう。左へ。既に石垣がちょっとだけ垣間見えている。

nihonmatsu-9296搦手門跡。立派な石垣の櫓台が残る。

nihonmatsu-9297搦手門跡 説明板。石垣、門柱礎石が残る。慶長初期(1590年)には古絵図からここに門が建てられていたことが分かっており、その後何度か修改築されている。

nihonmatsu-9300搦手門跡を外側から。櫓台の石垣はなかなかの高さで築かれている。門を越えると道が左に折れ曲がる虎口状。

nihonmatsu-9301櫓台石垣の正面、門に向かって左側にも石垣がわずかに残るが、ほとんど壊れて(壊されて?)しまっている。以前はここにも右側と同様程度の石垣が築かれていたはず。

nihonmatsu-9302門柱の礎石も二つしっかりと残る。

nihonmatsu-9302a-9298搦手門 説明板その2。改修の事実を示す、新旧2時期の門跡が見つかっている。最初は掘立柱の冠木門跡で直径30cmほどの柱の根元が現存!していたそうだ。大手門跡近くにある歴史資料館で展示されているとか。2つ目は先ほど見た礎石を用いた高麗門形式と思われる門で、石積み形式から寛永初期(1624年〜)の門跡だとか。つまり、蒲生氏時代まで掘立柱の簡素な門だった搦手門は、その後に入部した加藤氏により石垣造り・屋根のある立派な高麗門に作り変えられた。

nihonmatsu-9303では搦手門から本丸へ続く石段を上がっていく。なお正保城絵図などを見ると、搦手門から直接本丸へ向かうこの道は描かれていない。公園整備時に新たに築かれたものか。

nihonmatsu-9306石段を上がると、木々の向こうにそびえる立派な石垣が見える!逸る気持ちを抑えて、まずは右側の石碑を見る。

nihonmatsu-9307奥州探題 畠山氏居城 霞ヶ城址 石碑。蒲生氏や丹羽氏ではなく二本松城創建の頃の名前が彫られているが、横の説明板によると、昭和28年の本丸入口石垣修復工事完了の際に、畠山氏末裔の人によって建てられたことから、こうなっているそうだ。ちなみにこの碑は本丸入口付近にあり、平成7年に本丸石垣が完成したことからここに移されたとか。

nihonmatsu-9309では、本丸石垣へ。搦手門から入ったため、側面から見ることになった。崩壊激しい状態だったそうだが、平成2年からの発掘調査により全貌が判明し、この迫力で復元された!

nihonmatsu-9313隅部(トンガリ部)から奥までを収めるべく超広角で撮るも変形してしまったの図。本来の形はこんなに尖っておらず、1つの上の写真を参考。

nihonmatsu-9314a-9310なおこの面の内部には別の古い石垣(横7m、高さ1m、3段ほど)が埋まっており、調査の結果、蒲生氏時代の慶長初期に築かれた最も初期の石垣遺構であることが判明したそう。埋め戻して保存。

nihonmatsu-9315本丸前から二本松城下を見下ろす。かなり高い。かつてあったと言われる天守の上から見下ろすと更に良い景色だったことだろう!

nihonmatsu-9316a-9327本丸入口全景。ちなみにこの石垣は一見 天守台にも見えるが、本丸はこの石垣の上全体で、天守台は更にその上に別に積まれている。

nihonmatsu-9317では石段を上がって本丸へ。

nihonmatsu-9328詳細な構造は不明とのことだが、櫓門でも築かれていたかのような堅固な食い違い虎口。

nihonmatsu-9330食い違い虎口を超えて石段をあがると、石垣上の広場へ。ここが本丸。周囲は土塁で囲まれ、隅櫓台石垣および天守台石垣が復元されている。

>> 二本松城 [5/6] へ続く。<<


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>


訪問時期:2014年10月
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二本松城 [4/6] 発掘復元工事で山上に蘇った、立派な本丸石垣へ。” への1件のフィードバック

  1. 二本松城搦手門石垣を通して本丸をのぞむ雰囲気が伊予松山城大手門石垣から本丸をのぞむ雰囲気に似ていると想いませんか?加藤氏が松山城から若松城に移封された時代の構築じゃないかと想像しています。

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