二本松城 [1/6] 戊辰戦争で焼失した大手門跡を通って城跡へ。

二本松城は室町時代に奥州探題だった畠山氏がここに城を築いたことが始まりとされる。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏などの所領を経て、江戸時代(寛永20年[1643])に10万石で入部した丹羽氏により石垣や城下町を整備し、現在残る二本松城を築き上げた。幕末の戊辰戦争では旧幕府側(奥羽越列藩同盟)につき新政府軍による攻撃を受け、二本松城は落城した。江戸時代の建物はほぼ無くなったが、近年整備が続き箕輪門(櫓門)および天守台石垣が復元された。

二本松城<基本データ>
●名称: 二本松城 (別名 霞ヶ城)
●所在: 福島県二本松市 (マップ)
●築主: 畠山満泰 / 丹羽光重
●築城: 1414年 / 1643年
●遺構: 天守台、石垣、曲輪
●関連: 二本松城跡二本松観光協会HP


<訪問記>

nihonmatsu-9162s二本松城跡はJR二本松駅の北西に位置する山の上にあり、駅から10分ほど北上したところに大手門跡が残るという。城へ向かうルートは幾つかあるが、行きは大手門ルートとしよう。まずは大手門に向かう道すがらにあった二本松神社へ。神社前のバス停横に二本松城絵図が貼ってある。

nihonmatsu-9163二本松神社 参道入口。江戸時代、丹羽光重公 二本松入部の際にここに遷座し、以後 丹羽家と領民の守護神としたという。

nihonmatsu-9164二本松神社入口に掲げてあった、二本松御城郭全図。現在地の示している場所の右側に描かれる石垣造りの部分が、大手門。そこから北へ伸びる道を通って城跡へ向かおう。

nihonmatsu-9166大手門跡に続く道。山に向かって、ゆるやかな上り道になっている。道の両側には古くからの家々が建ち並ぶ。往時は大手門前ということで番所などが並んでいたのだろう。

 

nihonmatsu-9168しばらく登ると突如現れる石垣。ここが大手門跡。キレイに切り揃えられた大きな石が積み上げられている。かなり奥のほうまで石垣が続いているので門だけではないかなり巨大な設備だったことが伺える。この大手門は丹羽氏入部時の築城時には築かれておらず、幕末に建設されたものだとか。

nihonmatsu-9170櫓門の内部だったと思われる場所。門の中に番所的な場所があったのだろうか。説明板が門内部だった場所に建てられている。

nihonmatsu-9167二本松城大手門跡 説明板。上半分は二本松城に関する説明。この大手門、当時は坂下門と言われ(城へ続く長い坂道の一番下にある)、江戸時代後期の天保三年[1832]、幕府の許可を得て二本松藩悲願だったこの大手門をやっと築いたとか。しかしそのわずか32年後には戊辰戦争が発生、旧幕府側についた二本松藩の居城 二本松城は新政府軍の攻撃目標となり、兵火で大手門は焼失した。残念無念。

nihonmatsu-9171大手門跡の近くには二本松市歴史資料館がある。ちょうど二本松城 特別企画展の開催期間中だったが、時刻は現在 朝の7時半。城めぐりの朝は早い。開館はまだまだなので、帰りにこの道を通ったらぜひ入ってみよう(→結局別ルートで降りたので訪問出来ず)。

nihonmatsu-9171hosokuそれにしても、なぜこのフォントを使ったのだろう・・・妖怪博物館じゃあるまいて・・・

nihonmatsu-9173s 大手門付近から二本松城下町方面(駅方面)を見返す。登城路は結構な坂道になっていることが分かる。

nihonmatsu-9174緩やかな坂道がずっと続く。大手門跡を過ぎると特に見るものもなく延々と登るのみなので、結構シンドい。 先に見える陸橋あたりが、坂道の頂点で、その先はしばらく下りだとか。よかった。丘を均して城下町に仕立てたということかな。

nihonmatsu-9176坂の頂点あたりから山の上の二本松城跡(本丸跡石垣)および復元された箕輪門に付随する土塀(家の右横に見えている部分)がよく見えた。いい眺望。手前の青い屋根の家からは遮るものなく城跡全景がバッチリ見えることだろう!うらやまし!

山の中腹に見える”如何にも”な巨大な御殿風建物は、GoogleMapによると「観光会館」と書いてあるが詳細不明。パンフの地図と見比べるとどうやら本坂御殿跡に建っているものと思われる。ありがちだが、実に無粋。

nihonmatsu-9177坂を越えるとしばらくは下り道。奥の山が、二本松城跡のある山。

nihonmatsu-9178s石垣が見えてきた。いよいよ城跡へ。駅前から写真を撮りつつここまで、徒歩約20分。

nihonmatsu-9180二本松城の別名 霞ヶ城の看板と、箕輪門まで続く石垣。

nihonmatsu-9181場内には写真のようなミニ案内図付きの標柱がたくさん建っていた。現在地と遺構の方向が随時確認できて、かなり便利。箕輪門へ行く前に、戒石銘碑(かいせきめいひ)を見に行こう。

nihonmatsu-9182a-9189霞ヶ城看板から石垣に沿って右へ少し進めば、巨石や石碑が建ち並ぶ場所へ。どうやらここが戒石銘碑のようだ。

nihonmatsu-9182b-9186いろいろ石碑やら説明板やらが建っているが、その中央にそびえるこの巨石が「戒石銘碑」本体。

nihonmatsu-9182c-9187巨石の中央をよーく見ると、漢詩が掘り込んであるのが分かる。寛永己巳之年(つちのとみのとし、寛永二年)に彫られたようだ。ざっと読むと、俸禄は民の膏脂。民を虐げるのは易しいが天を欺くのは難しい。日々頂いている給料は元は領民が苦労して得た利益を元にしている。民を騙せても天はお見通し。気を引き締めて公務に取り組め、と言うことだろう。不正公務員や号泣議員は100万回読むべし。

nihonmatsu-9183旧 二本松藩戒石銘碑 説明板。国指定史跡。寛永二年、藩士登城の際に目に付くよう藩庁の前のこの場所に刻んで置いたという。

nihonmatsu-9190では箕輪門へ向かおう。門まで続く低い石垣の向こう側は駐車場だった。現在 朝8時前、駐車場もガラガラ。桜の季節や菊人形の頃はここが満杯になるのだろう。

nihonmatsu-9191しばらく進むと石垣が途切れ、霞ヶ城址の石碑と銅像、長い石段の向こうに立派な櫓が見える。現在のいわゆる二本松城跡(霞ヶ城跡)の入口である「箕輪門」だ。色々復元されて立派な様相になっているが、入場無料。

nihonmatsu-9195箕輪門の石段前のスペースは意外と広く、前方を石垣に囲まれ、その上に高い櫓がそびえ立つ印象。普通のレンズでは近すぎて写真では収まりきらないので、例のごとく超広角で撮影。こんな感じです。

Part2では箕輪門から城内へ。

>> 二本松城 [2/6] へ続く。<<


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>


訪問時期:2014年10月

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二本松城 [1/6] 戊辰戦争で焼失した大手門跡を通って城跡へ。” への1件のフィードバック

  1. 1971年頃はまだ本丸の石垣も補修されておらず、本丸には赤い屋根の模擬天守風天文台が立っていました。坂下門から丘の頂上に上がると、馬蹄形城郭の対岸の丘の上に赤い模擬天守風建造物が見えておりました。今ほど本丸石垣は高くなかったような気がします。

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