米沢城 [1/4] 米沢駅から徒歩30分、謙信公を祀る上杉神社へ。

米沢城は江戸時代に築かれた米沢藩上杉氏の本城。上杉氏といえば越後春日山城が有名だがそれは主に謙信時代の話で、二代目 景勝の頃には秀吉より会津120万石を拝領する大大名となるも徳川氏と対立し関ヶ原後には出羽米沢30万石に減封された。現在の米沢城跡は出羽米沢藩に政庁として築かれたもの。上杉氏が入る前は伊達氏の本拠(政宗はここ米沢城で生まれたとされる)、政宗が仙台へ移封した後は会津を治める蒲生氏の支配下となった。現在城跡は上杉神社となり建物遺構はほぼ皆無だが土塁と水堀による縄張りが残る。また近くには上杉家菩提寺(法音寺)や歴代藩主が眠る上杉家廟所など、江戸時代を通じて米沢を治めた上杉氏ゆかりの場所が今も残る。

米沢城<基本データ>
●名称: 米沢城(別名 松岬城)
●所在: 山形県米沢市 (マップ)
●築主: 上杉景勝
●築城: 1608年
●遺構: 土塁、堀
●関連: 米沢観光NAVI


<訪問記>

yonezawa-9037a-9039米沢駅前にも「上杉の城下町 米沢へ」と書いてあり、その下には騎馬の謙信公が刀を振りかざす写真が。謙信公時代は米沢は伊達氏の支配だったが、江戸時代260年を治めたのが上杉氏ということで、米沢は上杉氏推し=謙信公がメインキャラクター、ということなのだろう。ちなみに「為せば成る」で有名な上杉鷹山公、大河ドラマ「天地人」で有名な直江兼続も、ここ米沢が縁の地だが、やはり謙信公のネームバリューには叶わないということか。

yonezawa-9038駅前にあった観光地図。米沢駅(右端)から上杉神社(左端)までの道順が示してある。ほぼまっすぐ進むだけのようだ。写真ではカットしたが更に左上に上杉家廟所も記されていて、これは歩いて回れるかな?と感じ、徒歩での散策を決意。しかし、これが、意外と、遠かった。時刻は15時20分。

yonezawa-9040駅正面の道をまっすぐ西へ。天地人では終盤の舞台となったこともあり、至る所に当時造られたと思われる天地人グッズが見られた。これは街中の某店頭にあった天地人看板とレプリカ甲冑。直江兼続といえば愛の文字の前立て。愛宕神社の頭文字と言われている。この兜の現物は上杉神社の宝物殿「稽照殿」に伝わるとか。

yonezawa-9043しばらく進むと広場に高札のような看板が掲げられた場所があった。

yonezawa-9044ここはまさに往時、高札が掲げられた「札の辻」跡とのこと。この道は大手通にあたる。

yonezawa-9045札の辻跡に設置された高札の中に、当時の図面などがあった。米沢城を囲む三重の水堀の外堀のすぐ外側にあたる場所のようだ。

yonezawa-9046上杉神社へは一本道ではなく少し曲がらないといけないが、曲がるポイントで写真のように看板が掲げられていたので迷うことなく神社に辿り着ける。

yonezawa-9047sこのあたりから当時の中堀の内部(二ノ丸)にあたるのだろうか。現在は「松が岬公園(まつがさき こうえん)」となっていて、園内には上杉博物館(左端にちょっと見えてる建物)やレストラン、駐車場、そして上杉神社(米沢城跡)がある。日は結構傾いていて15時50分。駅から徒歩で約30分かかった。

yonezawa-9049-s有名人の多い上杉家、最初の銅像は「為せば成る」で有名な上杉鷹山公(うえすぎ ようざん)だった。この後、幾つもの鷹山公の銅像を見ることになる。米沢は上杉氏推し、中でもかなりの鷹山公推しだ。

yonezawa-9049a-9048上杉鷹山公 銅像説明板。崩壊寸前の米沢藩の財政を復興させた江戸時代随一の名君!若干17歳で藩主となるや、倹約令、産業開発、藩校設立、綱紀粛正などを断行。家督を譲る際に示した「伝国の辞」は民主主義の原点を表す名文という。あのケネディ大統領が日本の政治家で最も尊敬する人物として上杉鷹山公を挙げたこともあるという。

yonezawa-9051園内には上杉神社の他にもう1つ、松岬神社(まつがさき じんじゃ)がある。鷹山公、景勝公、直江兼続などが合祀されている。

yonezawa-9052松岬神社 説明板。伝国の辞の石碑が境内にあるので参拝がてら見に行ってみよう。

yonezawa-9054こちらが鷹山公が隠居後に後継者に示した「伝国の辞」の石碑。右側が原文、左側の小さな石に現代語訳が刻まれている。

yonezawa-9056伝国の辞 説明碑。17歳で藩主となった鷹山公は数々の改革を断行後、35歳で引退。翌36歳のときに次の藩主にこの三か条を示したという。藩主は国家人民を私物化してはならない。国家人民のために藩主はおり、藩主のために国家人民がいるのではない。

yonezawa-9057上杉神社に渡る橋の前に松岬公園のマップがあった。右下の大きな灰色の建物は上杉博物館。本丸は上杉神社の境内になっているが、内堀と曲輪の形はよく残っているようだ。

yonezawa-9057a-9067sでは、上杉神社へ。この石橋を渡れば本丸内。上杉謙信公が旗印に使ったという毘沙門天の「毘」の旗と、越後の龍と称された謙信公にちなんで「龍」の旗が掲げられている。鳩がスゴい。

yonezawa-9058内堀と本丸土塁。

yonezawa-9059内堀と本丸土塁(反対側)。

yonezawa-9063城内へ入ると説明板がたくさん並ぶ。往時の米沢城下 絵図。米沢城に天守は無く、本丸隅に三層櫓が二基建っていたという。

yonezawa-9064米沢城 説明板。伊達氏、上杉氏の居城であった米沢城は、鎌倉時代にこの地に居館を建てた地頭長井氏を起源とする。その後 伊達氏がこの地を攻め取り、伊達晴宗・輝宗・政宗の三代に渡り伊達氏の本城として使用された。政宗の頃に秀吉の命で伊達氏が岩出山城に移ると、会津を領する蒲生氏郷の家臣が米子城に入る。そして関ヶ原の合戦後、西軍についた上杉景勝が越後から米子30万石に移封となり、以後 明治まで260年間、上杉氏が米子を治めた。三重の水堀が囲む輪郭式の縄張りで、本丸には謙信公を祀る御堂が建ち、天守はなく二基の三層隅櫓と本丸御殿が建っていたという。左側には劇画タッチのゆかりの武将像が描かれる。

yonezawa-9065謙信は49歳で突如亡くなる(脳溢血とされる)。その後遺骸は甲冑を纏った姿のまま瓶に入れられ漆で固められたと伝わる。その瓶は亡くなった春日山城に祀られていたが、上杉氏の移封とともに会津そしてここ米沢に移され、江戸時代を通じて米沢城内に置かれていたとか。明治時代になって他の藩主が眠る上杉家廟所へ移された。

>> 米沢城 [2/4] へ続く。<<


“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>


訪問時期:2014年10月

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