山形城は室町初期に最上家初代とされる斯波兼頼が山形に入部した際に最初に築城したとされ、その後 戦国時代に最上義光が出羽国57万石の大名となり三ノ丸を含む現在の城域を作り上げた。当時は土ベースの城だったとされるが、最上家改易後に入部した鳥居忠政により石垣造りの城郭に大幅改修された。二ノ丸石垣や水堀などが現存、本丸は陸軍により埋め立てられていたが発掘復元工事が進んでいる。二ノ丸東大手門、本丸一文字門が復元済。
<基本データ>
●名称: 山形城(別名 霞城[かじょう])
●所在: 山形県山形市 (マップ)
●築主: 斯波兼頼 / 最上義光 / 鳥居忠政
●築城: 1356年 / 1600年 / 1622年
●遺構: 石垣、土塁、堀、復元櫓門等
●関連: 山形市観光協会HP、山形市HP
<訪問記>
JR駅を出る。さぁ城へ一直線!と思って前を見ると巨大なビル、そして展望台の文字。これは…帰りにぜひ上から山形城全体像を…とか思ってると大抵時間がなくなり見逃すので、時間ないけど、ダッシュで展望台へ。
これ。霞城セントラル。最上階24階が展望台。ビルの四方にあるとか。この写真はビルの下から撮ったけど、霞城セントラル内部には山形駅から専用通路で直結。
エレベータで一気に24階へ。ビルの四隅が一面ガラスの展望台!
霞城セントラル展望台から見下ろす山形城跡全景。すごい眺め。しかし緑に囲まれた堀の内部には野球場やら博物館が建ち並び、城跡が楽しめるのは中心部の内堀(いまは空堀状態)より内側のみのようだ。中心部の茶色い部分。写真では小さくて分からないが、復元された櫓門等が肉眼では見えた。正方形の城跡エリアの右奥に少し広がる緑の部分が「最上義光歴史館」のあるエリア。
ちなみに、ガラスの向きがあまりよくない(お互いの景色がお互いに写り込む)のと、真ん中に太い柱があって邪魔で、ガラスの反射なくキレイに城跡全体を写すのはなかなか難しかった。/\ではなく/ ̄\ならよかった。更に今から思うと屋上が空中回廊らしいので(参考)屋上へ行けばよかったかも。
霞城セントラルを城側に抜けて、いざ城跡へ。キレイに整備された石畳の道の向こうに、石垣が見える!ちなみにここは南追手前広場公園。
外堀に掛かる石橋、そして複雑に組み上げられた石垣。
橋の左右側面もバッチリ石垣。下に降りて石垣を間近に見る事もできる。
美しく静かな水を湛える山形城外堀。噴水が設置されているがこれぐらいのかわいいサイズなら許容範囲。二ノ丸側石垣は途中から先は土塁になっていた。
では橋を越えて城内へ向かおう。橋の向こうは左右に巨大な石垣が積まれ、道は左へ曲がる。往時は巨大な櫓門が行く手を遮る枡形虎口だったことだろう。
橋の上から東側を見る。土塁から生える巨木の枝葉がまさに外堀を覆い尽くさんが如く。
では南門へ。南追手門とも言うようだ。奥の櫓門台の手前、小さな石垣台の上には攻め手に横矢を掛ける絶好の位置。
右側石垣の前には 南大手門跡 の標柱。石垣は表面を叩いて整え隙間も埋めた「打込み接ぎ」。
南追手門枡形を、内側から見返す。コンクリートの道になっているからか、櫓門の礎石などは見当たらなかった。
南追手門を越えるといきなりの駐車場。博物館や体育館などがあるからか、なかなかの人出。駐車場の左側に延びる道へ。
駐車場の西側には広々と広がる芝生公園。ベンチにひとり佇むオッチャンの後ろ姿に哀愁。
駐車場と芝生公園の間の道をしばらく北へ進むと、いきなり現れるこの土塁と空堀!奥にはなかなかに立派な石垣と土塀なんかが見える。予定ではこのまま道に沿ってまっすぐ(左)進んで西門および北不明門跡を見てから本丸へ〜だったのだが、この空堀と奥の石垣に目を奪われこのまま右へ(写真奥)。そしてそのまま東大手門方面へ行ってしまったため西門・北不明門を見逃す。むむむ。
キレイに整備された土塁と空堀に沿って、奥の石垣へ。整備というより復元か。奥の石垣の手前の堀底に石積み?の何かが見える。
石垣の崩落跡 説明板。どうやら堀底にあった石積み?風に見えたものは、発掘調査で発見された石垣の崩落跡だったようだ。江戸後期の絵図には「御櫓崩」とあるらしく、その跡だとか。崩落した櫓と石垣は拾いあげて再利用されることなく全て埋めて均されていたものが発掘調査で見つかり、そのまま現況展示。山形城の歴史を伝える一幕。
奥の石垣上の土塀は復元された本丸一文字門の一部。このあたりの石垣、土塁等はすべて発掘され復元されたもののようだ。
内堀は結構広い。広さを体感できる超広角画像を一枚。往時は水堀だったという。復元工事の過程で今は空堀になっているが、いずれは水堀にする計画もあるとか。随分雰囲気が変わると思う。
空堀の南側全景。内堀で囲まれた本丸全体(土塁の向こう側)が復元工事の対象になっているようだ。ただし復元された空堀はこの南側と、東側のみ。
本丸内部へは、右奥に見える木橋から渡って入る。このあたりは一段と内堀が幅広い。
古絵図等を元にして2010年に描かれた、霞城本丸 義公桜花之図。往時城内にのんきに桜が植えられていたことはなく、義光公が居た頃の山形城がこんな感じだったらいいなという妄想図。なお山形城本丸には御殿と隅櫓、櫓門等があり、いわゆる天守はなかった。また義光公の時代は土ベースの城で、石垣が築かれたのは最上家改易後に入った鳥居氏時代。
では復元された本丸一文字門へ向かおう。キレイに整備復元された石垣、土塁、土塀、木橋、門が見事で、一歩進むごとにカメラを構えずに居られない状態。時間が少ないことはこの頃はすっかり頭になかった。。。
本丸一文字門周囲の堀は一段と広く取られている。それが分かる一枚。
上の写真あたりに設置されていた、山形藩の藩主一覧表。最上義光公の活躍で見事五十七万石の大名となった最上家だったが、あえなく3代で家中騒動により改易。その後の最上家は近江大森藩一万石→五千石の旗本となって存続した。山形藩は写真のとおり藩主がコロコロ変わる状態だったが、今に残る立派な石垣を造り上げた鳥居氏よりも、現地ではやはり山形藩祖 最上義光公が一番人気。というか他の藩主はほぼ総スルー状態だった。そりゃそうか。
>> 山形城 [2/4] へ続く。<<
“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら。
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訪問時期:2014年10月
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