弘前城 [5/7] 旧大光寺城 追手門を移築した古い櫓門 “北門(亀甲門)” へ

弘前城弘前城 [4/7] の続きです。

本丸、北の郭を散策。本丸・北の郭には天守以外には櫓・城門の類は残っておらず、ひたすら跡のみが続く。

Part5では北の郭から更に北の四の丸へと向かう。


<訪問記>

“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら
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hirosaki-7879北の郭 北東端にある櫓跡へ。なぜかここだけは櫓台跡へ直接上がることはできず、其の手前に築かれた専用の展望デッキから見下ろす形のようだ。

hirosaki-7880子の櫓跡。ここも干支の方角で北を表す「子(ね)」で命名されている。なぜ北東端なのに丑寅ではなく子なのか?と一瞬思ったが、よく地図を見てみると、ここは北の郭の北東端ではあるが東に隣接する二の丸と一緒に考えれば分かる。東の二の丸の北東端には「丑寅櫓」があり、それに比べ中央の北端にあたるここは「子の櫓」になる、ということだろう。子の櫓は二ノ丸の櫓群同様に維新後も現存していたが、明治39年なんと花火!により焼失。花火をした者は打首獄門だ。こちらは発掘調査で出てきた礎石そのものを、そのまま展示しているという。埋め戻して位置だけ表示する展示方法(籾蔵跡)と、こうしてそのものをそのまま展示する方法との選択の違いはどこにあるのだろう。

hirosaki-7881展望デッキから見下ろした「北の郭 子の櫓跡」礎石群。柱の上に礎石があるだけではなく、周囲ぐるっと石が敷き詰めてある。

hirosaki-7882子の櫓跡 付近から見た北の郭全景。結構広い。籾蔵以外にも何かが建っていたのだろうが、籾蔵跡の説明板にあったように「近年の建造物により」跡が破壊されてしまって分からなくなったのだろうか。

hirosaki-7883北の郭の南西部から、坂道を降って読んの丸へと向かう。北の郭の北側には四の丸が広がるが、直接北へは向かえない。北の丸の北側および西側は高さ6mあまりの崖となっている。この道はその崖の斜面に沿って造られた降り口。恐らくこの道は近年 観光用にできたもので、往時は北の丸から出るには東に抜ける二ノ丸への入口だけだったのではないだろうか。

hirosaki-7884坂道を降りると本丸から西側眼下に見えた蓮池の北端へ出る。写真左側の土手上は本丸、右側の土手は細い土塁で、向こう側は細い川と西堀にあたる。

hirosaki-7885北の郭と四の丸を区切る細い川に架かる橋。波袮橋(はねばし)。橋の向こう側が四の丸。

hirosaki-7887四の丸。現在四の丸は西側が護国神社の境内、東側がレクリエーション広場となっている。

hirosaki-7888まずは青森縣護國神社へ。縣は県の旧字。天守の瓦と同じく、石鳥居も銅板で覆われている。

hirosaki-7889青森縣護國神社 拝殿。明治3年創建、始めは戊辰戦争における津軽藩士(倒幕軍)の犠牲者を弔うための神社だったとのこと。

hirosaki-7890境内にすばらしい看板が建っていたので掲載。平和の道標。今より160〜80年前までは西欧列強の植民地になるかならないかの瀬戸際で、当時の日本人たちの英断と犠牲により独立を守り今の日本がある、ということを忘れてはいけない。という教え。知れば知るほど先の大戦までの流れは日本国およびアジア諸国の独立を守るための自衛戦争だったことも分かる。

hirosaki-7891もう1枚。似たような内容だが文面が異なる。青森縣護國神社は平和の杜と称し、かつての英霊の存在と感謝の気持ちを持つことの大切さを今の世に伝えている。

hirosaki-7892さて護國神社を出て四の丸を西へ。外堀を西へ渡る一陽橋。ここから外堀の外周をしばらく巡ってみよう。因みにこの橋を渡ると弘前公園外になり、完全に住宅街となる。

hirosaki-7894外堀の北西端。堀幅はそれほどなく、また土塁にも石垣は無い。

hirosaki-7895外堀に沿って北側を東へ。道の向かい側はパンフによると「伝統的建造物群保存地区」とされていて、古い住宅などが残るという。そのうちの1つ、石場家住宅へ行ってみる。武家屋敷かと思いきや酒屋だった。江戸時代から続く商家だとか。重要文化財指定。

hirosaki-7896石場家住宅の正面あたりには、外堀を渡って四の丸へと通じる「亀甲橋」が架かっていた。橋の向こうには櫓門も見える。

hirosaki-7897四の丸の北側の入口にあたる櫓門「北門(亀甲門)」。左右の土塁上にも土塀がめぐらされた堅固な造り。

hirosaki-7900北門(亀甲門)正面へ。今まで見てきた他の櫓門(南内門、追手門)と比べ、パッと見でも鉄砲狭間が無いなどの細かい違いがあるようだ。屋根が高く、勝手口と見張りの格子窓、装飾の少ない古い形式の門なことは同じ。

hirosaki-7901北門(亀甲門)説明板。この門はかつて津軽為信が攻め落とした大光寺城(だいこうじ じょう)の追手門を移築再建したものという。弘前城は実戦経験は無いが大光寺城は前述のとおり津軽為信により合戦の舞台となったため、この亀甲門は城内唯一の「実戦経験のある建造物」とのこと。鯱も古い形式だとか。チョット見てみよう。

hirosaki-7903-2s北門(亀甲門)鯱。古い形式とのことだが、どのあたりが古いのか説明が無いとちょっとよくわからない。

hirosaki-7903北門くぐって、内側から見返した北門。他の門は門扉の左右も完全に漆喰塀で覆われていたが、この北門は後部半分ぐらいが柱だけで支えられている。

hirosaki-7905北門 斜めからの勇姿。かっこいい。土塁に土塀に下見板張りの黒い櫓門。イイネ。

>> 弘前城 [6/7] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
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