かつての東北覇者 南部氏家臣だった大浦為信(のち津軽と改名)は戦国末期に津軽一帯を掌握、秀吉・家康に恭順し、津軽藩四万七千石を治める初代藩主となった。弘前城は津軽氏の居城として構築。築城当時は5層天守があったが落雷で焼失。現在の3層天守は九代 寧親が文化8年(1811)に”隅櫓の改築として”完成させた。外堀内の本丸〜四の丸が弘前城公園として整備されている。建造物も3層天守に加え、5櫓門、3隅櫓が城内に広く現存する。
※2015年5月中旬より約5年間、天守台石垣修復のため天守が曳家移転する予定。なお移転中の天守も内部公開する予定だとか(参考)。
<基本データ>
●名称: 弘前城
●所在: 青森県弘前市 (マップ)
●築主: 津軽為信 / 津軽信枚
●築城: 慶長16年(1611年)
●遺構: 天守、現存5門、現存3櫓、石垣、水堀
●関連: 弘前公園HP、弘前市HP
<訪問記>
“奥州仕置之旅顛末記”(2014年に敢行した3泊4日東北11城訪問の旅)へのリンクは こちら。
<弘前城/根城/八戸城/盛岡城/志波城/多賀城/仙台城/山形城/米沢城/二本松城/会津若松城>
弘前城で360°パノラマ映像を作りました。下乗橋から見る天守です。
弘前城への旅は JR弘前駅からスタート。結構近代的なデザインの駅ビル。まずは地図を見てみる。
駅前にあった弘前駅前マップ。駅から右前に延びている道をまっすぐ行くだけのような気がする。あとは距離か。
駅から真っ直ぐ行くこと約25分。城跡の前にある弘前市立観光館の前へ。頭に天守を乗っけて刀を持った「いかにも」なゆるキャラの巨大石像が気になりパシャリ。説明板によると名前は「たか丸くん」。弘前城築城400年記念のマスコットキャラクターで、弘前城の別名 鷹岡城 にちなんでこの姿&名前という。
たか丸くんの見つめる方向の先には、この景色。先ほどの灰色ベースのビル群とは全く違う、緑と茶色の木造建築な世界。素晴らしい! ここは城跡の南端、追手門にあたる。土塁の周りを囲む立派な水堀は外堀。
外堀前。この周囲は交通量が多く、車がびゅんびゅん走っていた。
さて、さっそく追手門から弘前城内へ入ろう。写真の撮り方の加減かもしれないが、石碑が右に傾いているような気がしてならない。
弘前城 追手門。津軽藩時代からの現存。勝手口の横には見張りのための格子窓がある。建築時期は不明ながら、江戸初期と思われるとのこと。櫓部分の白漆喰壁には鉄砲狭間が開けてある。そして門の左右、土塁と門との間は土塁の角度に併せて拵えられた斜めの土塀が隙間なくガッシリと守る。
追手門の手前の土塁には「土塁にのぼらないでください」という可愛らしい看板が。修学旅行で来た子供はすぐに登りそうだ(そして勢い余って向こう側の外堀に落ちる)。土塁は英語で the banks というようだ。ちなみに堀は moak、櫓は turret。
弘前城 追手門 正面。
追手門前にある 史跡 弘前城 説明板。天守に加え城門五棟に隅櫓三棟が現存するという、まさに「宝の山」。米軍による無差別爆撃が無かったことも大きい(大坂城も名古屋城も爆撃が無ければかなりの建造物が残っていた)。弘前城 追手門は、よくある枡形を形成するための高麗門(一ノ門)が虎口外側に無いことや、装飾の少ない簡素なデザインであることなどから、古形式の櫓門とされているそうだ。なるほど。
門の前に置いてあったツボ。共用の傘入れのようだが、右の木札をよく読んでみると、このカメは三の丸御殿跡から出土した素焼きの大カメを模して1/3の大きさに復元したものという。大きさに対し薄すぎるため何かの貯蔵用ではなく、能楽堂などの床下に埋める音響効果用(!)と考えられるとのこと。前面のマークは「七葉の杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)」という津軽家の家紋。
追手門から中へ。三の丸にあたる。三の丸は主に市民広場や市民会館、植物園などに転用されている。
追手門を振り返る。
追手門入ったところにある城跡案内図。左が北。追手門からまっすぐ進めば中堀に当たり、その左側に二ノ丸へ通じる橋があるようだ。
三の丸内を北へ。追手門から二ノ丸へ通じる道沿いは幸い市民広場と称した芝生広場のため、城跡の雰囲気を損ねてはいない。道の右側は桜、左側は松。桜の季節にはすごい人出だろう。
市民広場の方を見てみると、芝生広場には不必要な土塁が所々残っていた。これも弘前城の遺構だろう。
そして二ノ丸と三ノ丸を隔てる中堀へ。左奥に赤い欄干の橋が見える。
二ノ丸へ渡るための赤い橋へ。橋の左側に橋の説明板がある。
杉の大橋 説明板。文政四年に架けられた現存橋のような書きっぷりだが、橋自体は欄干に書かれているとおり平成の建造。橋が架かっている部分の堀の両側が石垣になっているとのことで、橋の下を見てみよう。
杉の大橋 下部。確かに橋と堀脇の土塁が交わる部分のみ、石垣が設置されていることが分かる。この石垣が、文政四年製。
杉の大橋から見下ろした中堀。堀は土塁ベースで、水面ぎりぎりの部分に低く石垣が設置されている。土塁の下部のみを石垣化したものを「腰巻石垣」とも言う(逆に上部のみを石垣化したものは「鉢巻石垣」。分かりやすいネーミングで覚えやすくて助かります)。
赤い杉の大橋を渡ると、二ノ丸へと通じる櫓門「南内門」へ。構造は先程の追手門と同じだが、左右の土塁に隣接する部分を土塀が囲んでいないところが異なるぐらいか。
>> 弘前城 [2/7] へ続く。<<
訪問時期:2014年10月
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