大坂城 [4/8] 秀頼公と淀君が豊臣家の誇りと共に自刃した山里丸へ

大坂城大坂城 [3/8] の続きです。

大坂城の北西にある枡形虎口からの大坂城天守が最も美しいと思い様々な角度・構図で撮影しまくり。そこから本丸北に位置する山里丸へ降りる。part4では山里丸散策から内堀北側へと展開する。


<訪問記>

本丸北にある山里丸(山里曲輪)散策中。

osaka-7197山里丸のメイン展示は 「刻印石広場」。周辺の発掘調査等で出土した石や修復の際に破損等で使えない石から刻印が確認できるものを、その場所ごとに分類して展示している。

osaka-7198刻印石広場の説明板は、石に埋め込まれた鉄板。左図の通り7つの区画に分けられそれぞれの出土地域ごとに分けられている。右の説明によると天下普請・徳川期大坂城では刻印石が数万個も発見されている。豊臣期大坂城の石垣(石材)は一切再利用されておらず、すべて徳川期に新規に削り出された石材ということも刻印石から分かるという。

osaka-7199刻印石広場の様子。こんな感じで刻印が記された石材がずらりと並ぶ。1つ1つ見て回ると1時間ぐらいかかる量。

osaka-7201刻印石広場を越えて、山里曲輪の奥へ。普通の人は刻印石広場を見たらそのまま北側の極楽橋を通って内堀外へ出てしまうルートを取るが、歴史ファンは山里曲輪奥(東側)の歴史スポットを見逃してはいけない。

osaka-7202a-7206山里曲輪奥には、大阪夏の陣で旧天守炎上の際、天守から逃れてきた淀殿と秀頼公が自刃した場所とされる記念碑がある。もちろんここは徳川期大坂城のため正確にはここではなく、この地下数mに眠る「豊臣期大坂城の山里曲輪」であり、曲輪の形も規模も異なるであろう。淀殿と秀頼公、そして大野治長など重臣たちは落城後、当時の山里曲輪に焼け残った櫓に籠もり、最後まで徳川家に恭順せず自刃したという。

osaka-7203記念碑。平成9年(1997年)建立と意外と新しい。献花は絶えることはない。

osaka-7204記念碑の裏には簡単な経緯が記されている。読みづらいので書き下ろす。「慶長二十年(一六一五)五月八日、大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約三十名は、落城直後の大坂城内で自刃した。その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である」

osaka-7207秀頼公自刃地記念碑の裏には、山里曲輪から本丸へあがる石段があった。封鎖されており説明もなく詳細は不明。石段は明らかに近年のもの。石段の上には石垣に穴が開けられた通路(埋門風)がある。近づいて見れなかったので遠目に見た感じでは通路の内部はコンクリートのように見え近年造られたルートと想像。陸軍時代のものか。イベント等で天守閣館長にお会いした際に覚えていたら伺ってみよう。

osaka-7208a-7358さて山里曲輪から内堀の外へ向かう。山里曲輪の北側には、内堀に架かる極楽橋への出口にあたる枡形虎口がある。往時は櫓門があったが焼失。

osaka-7209枡形内部から山里曲輪そして天守を見返す。

osaka-7211枡形虎口内へ。

osaka-7213虎口内。石壁の向こうに天守がよく見えるので、ここも人気写真スポットの一つ。

osakajo2-3611s2015.4 に再訪すると、なんと枡形内にスロープが出来ていた。うーん、バリアフリー。これも「山里丸 整備事業」の一環と思われる。

osaka-7219枡形内部感を出すために超広角レンズで撮影してみる。現場はこんな感じ。

osaka-7220では内堀を渡る。橋上から内堀を見る。風のない日はこのとおりまさに鏡のような内堀水面。

SONY DSC内堀を超えると、橋の入口には「極楽橋」の石碑が立つ。豊臣期大坂城時代、絵図等によるとこの極楽橋には豪華な廊下橋が架かり、ここ外側の入口は立派な唐門が建っていた。その唐門は秀吉死後に京都の豊国廟、そして琵琶湖の北端に浮かぶ孤島「竹生島(ちくぶじま)」の宝厳寺へと移築され、今も竹生島に現存している。竹生島には唐門のほか、秀吉の御座船を再利用して作ったと言われる舟廊下や、豊臣期伏見城の移築御殿などが現存しているという、まさに歴史ファンにとっては「宝の島」。竹生島へは長浜等から直通フェリーが出ている(往復2590円)。

osakajo201506-6857極楽橋から内堀に沿って西へ進む。特に名称がないようだが、内堀の北側ということで便宜上 北の丸 と呼ぼう。北の丸の主な見所はやはり内堀沿いに望む本丸石垣と天守、そして外堀を渡る京橋口か。その他、伏見櫓跡(他の櫓と異なり、外堀に飛び出す形で櫓台が築かれている)もある。

osakajo201506-6864まるで、海に浮かぶ海城のような様相の大坂城。

osaka-7226左側は内堀、右側は広場が続く。広場には時おり「◯◯屋敷跡地」などの説明板が立つ。

osaka-7229北の丸に立つ内堀説明板。内堀総延長2.7km。最も高いとされる東側石垣は水面から24mに達する。本丸の内堀沿いには計13棟の櫓が建っていたそうだが、すべて明治維新の大火で焼失とのこと、勿体無い。ちなみに外堀沿いには4棟の櫓が現存する。

osakajo201506-6869内堀に沿って北の丸を西へ。複雑に折れ曲がる石垣と、角度によって表情が変わる大天守を見ながら歩くと飽きない。晴れるとこんな感じ。

osakajo2-6873正面に見える一番高い石垣は、先ほどギャラリーと称して大天守を撮りまくった本丸北西の山里口出枡形の石垣に当たる。

osakajo2-6881北の丸をほぼ西の端まで来て内堀を見る。これより先へ進むと西ノ丸となるが、西ノ丸は現在「西の丸庭園」として有料公開されているため(入口は大手口側)、これ以上は進めない。

osaka-7244北の丸と西の丸をつなぐ門「北仕切門」。この鉄門を超えると西ノ丸なのだが、前述のとおり西ノ丸は有料で料金所は南の大手口側にあるため、ここからは入れない。左側の石垣の焼け跡が痛々しい。

>> 大坂城 [5/8] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
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