大坂城 [3/8] 大天守は正面よりも山里口出枡形(天守北西)からの姿が最も美しい

大坂城大坂城 [2/8] の続きです。

二ノ丸に鎮座する秀吉公以下豊臣家を奉祀する豊国神社へ参拝。立派な秀吉公立像が目印。

そのまま正面の桜門を越えて本丸へ。


<訪問記>

大天守に沿って正面向かって左側を奥へ進み、本丸の北西方面へ。 個人的に、ここからの大天守の姿が最も美しいと思う。

では大坂城大天守ギャラリー開始。

osaka-7107a-7170常に人が写り込む(入場口があるので致し方なし)正面に比べ、北西部分は地面からそびえる石垣に威風堂々とした白壁の大天守が乗る姿のみを一望出来る。残念ながらこの角度からは近すぎて最上階の豊臣期風 望楼は見えない。

ちなみにここも人は多いがどんどん通りすぎて行くので我慢強くしばらく待てばかならずチャンスは訪れる。この時も、前を歩く人が右側の枡形へ入った瞬間、後ろから別の人が来るまでの数秒間のチャンスで連写。カメラを構えてじっと待つのが吉。

osaka-7107b-7177北西の枡形(山里口出枡形)手前あたりから。枡形の石垣越しに見る天守の勇壮さ。午前中だったため太陽がまさに天守の真上に”鎮座”していたが、幸いにも後光が差しているようにも見える。

osaka-7108b-7161超広角レンズを使って全体風景とともに撮影。公式HPによると、復興天守の全長は54.8m(天守台の下から鯱の先っぽまでの高さ)。この「そびえたつ感」が伝わるかな?
参考:APS-C 8mm(35mm換算で12mm)

osaka-7120もう少し北側へ。枡形に入ると、枡形の奥に小さな入口を発見。奥へ行ってみよう。

osaka-7121入口。狭い石垣の間をぬって進むのに少しドキドキ。

osakajo2-3596隠し曲輪入り口を内側から。左右の石垣の高さがかなり異なる、どういう形の門が付いていたのだろうか。

osaka-7122石垣の隙間の道を超えると正面に立つ「隠し曲輪」の説明板。ここは帯曲輪(曲輪の横などに併設される細長い曲輪)で、有事に兵を隠しておき攻めてきて敵をいきなり襲う目的だったとか。ここは石垣に刻印がたくさん見られることでも有名。では早速刻印を探してみよう。

osaka-7124隠し曲輪の石垣に近寄ってみると・・・◯に十字の刻印発見。伊予大洲藩の加藤家の刻印とのこと。大洲は藤堂高虎、脇坂安治を経て、加藤貞泰が藩を治めていた(参考:大洲城 訪問記)。刻印シリーズその1。

osaka-7125刻印シリーズその2。石垣に沿って歩くと、あるわあるわ刻印。ほとんどが◯に十字の伊予大洲藩・加藤氏のものだが、ときおり◯に二八の刻印も見られる。こちらは但馬出石藩 小出氏の刻印とのこと。

osakajo2-3586刻印シリーズその3。「西」。

osakajo2-3587刻印シリーズその4。「栄」?

osaka-7126奥の方へ進むと黒く焼けた石がたくさん見られた。米軍の無差別爆撃でやられた跡か、あるいは戊辰開城時の大火で焼けた跡か。

osakajo2-3591隠し曲輪 全景。人も少なくて落ち着いてて、好きな場所の一つ。

osakajo2-3593隠し曲輪の内堀側に並ぶ銃眼付き石垣。内堀に入ってくる不届きな輩はここから狙い撃ち。

osakajo2-3589隠し曲輪からは、内堀西側の「空堀と水堀の境目」がよく見える。本丸の石垣が微妙に角度をつけて曲げられているのもよく分かる。まるで巨大な立体迷路だ。

osaka-7180s枡形の内部へ。周囲の石垣の上に上がる事ができる(柵がないので落ちたら十数m下の内堀へ)。最も遠い石垣の端から撮影した、枡形越しに見る大坂城大天守。直下からは見えなかった、最上階の黒い望楼と、その壁に貼られた総金箔の虎の姿が見える。

osaka-7181s更にここから超広角レンズで撮影。周りの枡形の石垣も写り込む。こんな感じの場所。

osaka-7182a-7137広角レンズでは遠くて天守の詳細がわかりづらいので、望遠レンズで拡大写真を1枚。キレイすぎて模型のようにも見えなくもない。やはり最上階が黒で下が白というのは、やや変ちくりんと言わざるをえない。両方の意見を取り入れた政治的折衷案だと思うが、二兎追う者は一兎も得ず、どちらかに統一すべきと思う。因みにこの大天守、壁は何度か塗りなおしているが、本体は昭和6年造の約約80歳で、皮肉にも大坂城天守としては最長記録を誇っているという(豊臣期:1584年頃〜1615年焼失で約30年存続、徳川期:1620年頃〜1665年落雷焼失で約45年存続)。

osakajo2-3603出枡形の石垣の上から見下ろした内堀の姿。内堀は南側は空堀だが、このとおり北側は水堀。奥の高層ビル群はOBP(大坂ビジネスパーク)と呼ばれるエリア。

osaka-7183b-7131同じく西側の内堀の姿。石垣の下を覗きこむと直下の水堀なので、結構怖い。

osaka-7192石垣の上を並行移動し、別角度で枡形越しに見える大天守の姿。

osaka-7193sでは出枡形を東へ抜けて、天守の北側に位置する「山里丸」へ。各地の城に残る山里丸/山里曲輪は茶室などが並ぶ城主の憩いの場だったとか。今は発掘調査等で出てきた刻印石垣の展示場となっている。

osaka-7194a-7352わかりづらい場所に立つ山里丸の看板。先ほどの枡形から出て石坂を降り始めてすぐに右側の柵の奥を見てみよう。ちなみに看板が遠すぎて、現地では読みづらい。ズーム撮影が必要。恐らく石坂を造る前は石階段で(下に階段の一部が見える)、その上に恐らくバリアフリー関係で坂を造ったため、看板が遠くなってしまったと思われる。看板にもあるとおり、ここは大阪夏の陣で秀頼公・淀殿が自害した場所と言われている。

osakajo2-3608と思ったら新しい山里丸の看板ができていた(2015/4発見)。しかも山里丸付近の門や櫓の名前もちゃんと書いてある詳細なもの。素晴らしい。山里口出枡形の門は「姫門」と「山里口門」というようだ。

osaka-7194b-7355s石坂の下に少し残る石階段。江戸時代のものだろう。何故この階段の上に坂道を作ってしまったのか。。。先ほどの説明板はこの階段の最上段に立つ。

osaka-7194c-7353山里丸から見上げる、本丸石垣。草ぼうぼうだが、ここもなかなかの高さ、迫力を誇る。

osaka-7356本丸から山里丸へ降りる坂道を過ぎたら、そのまま先へ行くのではなく、少し振り返ってみよう。階段の上に作られた坂道…ではなく、その横の石垣に注目。石垣に近づいてみる。

osaka-7194s山里丸から本丸へ向かう階段の脇の石垣には、一部ボコボコに穴があいた場所がある。

osaka-7195sここは山里丸での見所の一つ、米軍爆撃時の機銃掃射痕。米軍に本土上陸された訳ではないので、空襲時の上空からの機銃掃射ということだ。上空から爆弾だけでなく、機銃でも攻撃されまくりだったようだ。

osaka-7196機銃掃射痕の説明板もある。大阪城跡には陸軍庁舎があったので標的になったようだ。その他 米軍爆撃では石垣も多数吹き飛んだりしたそうだが、全て修復済みとある。城内の石垣で時おり見られる異様に綺麗な石は、その修繕跡ということだろう。米軍は無差別爆撃だったため軍施設の有無にかぎらず住宅地を含め街中が攻撃されていたため、おかげで現存天守を始めとする無数の国宝文化財が無思慮に破壊されている事実を私たちは知っておくべき。

>> 大坂城 [4/8] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

このブログは果たして何位でしょうか? (=゚ω゚)ノ

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中