大坂城 [2/8] 豊国神社の秀吉公(銅像)にご挨拶して蛸石へ

大坂城大坂城 [1/8] の続きです。

南西の大手門より入城。現存の大手口枡形をじっくり見て、二ノ丸へ。現存櫓、石山本願寺跡地碑など見所を見て回った。続いて豊国神社に参拝して、本丸へ向かおう。


<訪問記>

osakajo2-3853二ノ丸から見た内堀(空堀)越しの「桜門」。あの向こうが本丸となる。桜門の正面には豊国神社があるのでまずそちらを参拝してから、本丸へ向かおう。

osaka-7080s桜門正面の豊国神社。ほうこくじんじゃ。秀吉公、秀頼公、秀長公(小一郎、秀吉の弟)を祀る神社だ。元々はここにあったのではなく、明治元年に明治天皇大阪行幸の際に大阪の地に秀吉公を奉祀しようと発案され、現在の中の島・中央公会堂の地に創建された。中央公会堂の建設により移転し、ここ城内二ノ丸跡に至るとのこと。やはり豊国神社は大坂城内が相応しいと思う。

osaka-7081鳥居を越えて境内へ。奥に見える二の鳥居の向こうが本殿、その手前には秀吉公の銅像が建つ。

osaka-7083豊国神社と秀吉公銅像。元々あった銅像はやはり戦時に供出されてしまったため、平成になって再建されたものとのこと。作者は今治城・藤堂高虎公騎馬像、玉造稲荷神社の豊臣秀頼公銅像などを制作された中村晋也氏

osakajo2-3543軍配を持ち鎧に陣羽織を羽織った立ち姿の秀吉公。史料によると、以前(供出前)は「太閤の姿」だったという。

osakajo2-3546後ろ姿。背には大きな日の丸。手に持った刀が陣羽織の後ろを持ち上げている。リアル。

osakajo2-3548かなりかっこいい太閤さん。斜めからの御姿も載せてしまおう。銅像(石像)は絵と違って立体造形、前後左右上下とじっくり見よう。

osakajo2-3556本殿へと続く二の鳥居。

osakajo2-3558豊国神社 本殿へ参拝。

osakajo2-3863では御城へ戻って桜門から本丸へ…の前に、少し内堀周りを散策。桜門から少し西へ行ったところにある、内堀の「水堀と空堀の境目」。空堀を綺麗に整備して、階段で降りられるようにしてもらえると、嬉しいなあー!

osakajo2-3871本丸東側の石垣。幕末まではこの石垣の上にずらりと隅櫓が建ち並んでいた。そして、空堀の端っこは石垣の上端というよりも「石畳」に近い感じになっていることが分かる。

osakajo2-3875この場所に建っていた説明碑。右上の図のうち、赤字が現存、黒字が明治戊辰&米軍無差別爆撃により焼失。右下の幕末期写真に注目。

osakajo2-3876幕末期の大坂城 本丸東側 隅櫓群。三層櫓が3棟連なり、その間を多聞櫓が繋いでいる。2つ上の写真と同じ角度。見比べてみよう。

osakajo2-3878更に東へ。二の丸の東端を守る枡形跡へ。ここの枡形については巨大な遺構は残っているが説明看板等はなかった。パンフの地図などを見ても特に何も書かれていない。とりあえず、中へ。

osakajo2-3885本丸東側の曲輪(現 梅林)方向を守るための場所のようで、銃眼付きの石垣がずらりと並べられている。当時はこの上には土塀があり、そこにも鉄砲狭間が並んでいたのだろうか。ちなみにこの石垣正面つきあたりを右に曲がって南へ進むと、現存一番櫓へと到達する。

osakajo2-3887枡形の東端から下をのぞき込むと、広い外堀があった。向こう側は玉造門あたり。今いるところの奥の白壁は現存 一番櫓。

osakajo2-3890枡形東端から、枡形内部および二の丸方面を見る。

二の丸探訪はここまでにして、桜門へ戻って本丸へ向かおう。

osakajo2-3897桜門。門の向こうは本丸。ここは本丸へ向かう正面入口に当たる場所で、最も観光客の多い場所の一つ。待っても待っても人がやってきて「静かな桜門」の姿を収めることはなかなか出来ない。粘りに粘って、なんとか撮影成功。数秒後にはまた人がやってきていた。

osakajo2-3895いざ本丸へ。

SONY DSC桜門 説明板。ここも維新で焼失。高麗門は 昭和44年 明治20年に復元されたもので、左右の土塀も同時に復元されたがその後台風で壊れたので昭和44年再復元、のようだ。門の両脇にある巨石は「龍虎石」と呼ばれるという。1つ上の写真を見返すと、確かに門の両脇には巨大な石が配置されており、石垣というより「石壁」だ。

osakajo2-3902桜門 内側から。大手門一ノ門と同じく高麗門形式。残念ながら明治の復元(大手門は現存)。

osaka-7091桜門の中へ。中は枡形になっているが、大手櫓門のような多聞櫓は焼失して再建されていない。桜門の正面には鏡石と呼ばれる巨大な石が目に入る。これは城内最大の巨石で、左側の汚れた?部分がタコに見えることから「蛸石」と呼ばれる…と言われるが、いつも思うのはどれがどうタコの姿なのかがよくわからんということだ。この前で説明しているガイドさんの話を立ち聞きすると、左側に見える赤い丸い部分がタコの頭が90°左に傾いたもの…とのことらしい。黒くグチャっとしているところが八本足。丸い部分の中央やや左に縦に2つ穴が空いているのが「目」。上部の矢穴の跡(点々とした穴の列)が足の吸盤? うーむ。

osaka-7093蛸石 説明板。重量108トン!ちなみに表面積はめちゃくちゃデカイが、厚さはそれほどなく薄い板状の岩になっている。

SONY DSC桜門脇にある井戸。元々にはここにあった井戸ではなく、本丸御殿の台所裏に位置した、城内でも最も格式の高い井戸の1つとのことで、昭和6年の天守再建の際に井戸跡の上に軍の庁舎が新築されるとのことで井戸跡をここに移設した、とのこと。なのでガワだけで中身は井戸ではないが、ご丁寧に水道が引かれていて水が出る。通称「銀明水」。もう1つの「金明水」は天守入口前にある。

osaka-7095本丸内へ。豊臣期石垣展示プロジェクトが開催中のため、当時の絵図やCGなどを描いた巨大な看板が建っていた。分かりやすい良い絵だったので掲載。まずは豊臣期大坂城の鳥瞰図。

osaka-7096そしてその豊臣期大坂城が大阪夏の陣で炎上した後に、その上に土を数m盛って、全く新しい城として生まれ変わった徳川期大坂城。今の姿はこれ。

osaka-7097そして大坂の役の屏風絵図。あくまで豊臣期石垣公開プロジェクトの看板のため、公開予定の石垣はこれとワザワザ示してある。CGではなく絵図の中のこれを公開、というのは面白い。当時は上から城を見ることも出来なかったのに、この角度からの姿を想像して絵に描いたのは本当にすごいと思う。そしてよくわからん細かいところは雲で隠すという手法も好き。(雲が多過ぎて何のこっちゃか分からん絵図もたまにあるが)

osaka-7100では天守正面へ。ちょうど大坂の陣400年イベント開催中(H26.10〜12)だったため、天守前の一番いいところにステージが設置されていた。邪魔!とも思うが、そのおかげでステージ周りに人がおらず、イベントもやってなかったので、天守前に人が居ないというステキな写真がある意味撮影できた。殺陣ショーとかやるらしい。

osaka-7101a-7340天守正面に立っている「大阪城天守閣」説明板。昭和6年に再建された、復興天守第一号とのこと。大坂夏の陣屏風に描かれている豊臣期天守の姿を参考にしたとあるが、豊臣期の黒ベースの天守ではなく、最上階以外は徳川期の白漆喰壁というデザイン。昭和20年の米軍無差別爆撃では多くの天守が失われたが、皮肉にも復興天守である大阪城天守閣は残った(石垣などに当時の爆撃の様子を物語る跡が幾つか残る)。なお豊臣期天守は、現在の天守の東側にある配水池の山のあたりにあったとのことで、実際その地下から豊臣期天守台の石垣が出土しているらしい。配水池を移動して、豊臣期天守台を発掘調査し、展示すべきと思うのは俺だけ?

SONY DSC天守前にはもう1つ「残念石」と銘打たれた巨石が横たわる。1620年から始まった徳川期大坂城の築城にあたり小豆島(しょうどしま、兵庫県 香川県)で切り取られ加工されたにも関わらず、大坂城で使われることなくそのまま現地に放置されていた石の1つとのこと。昭和56年(1981年)、360年を経てやっと思いが叶ったというわけだ。

osaka-7103ステージを避けて、少しナナメから見た大坂城天守。巨大な破風(三角の飾り屋根)が特徴的。石垣から左に伸びてる透明の建物はエレベータ(バリアフリー用のため通常は利用できない)。

osaka-7105天守横あたりから石垣に登ってみると真下はちょうど内堀の空堀部分と水堀部分の境目が見えた。低い石垣で区切られているのか、そもそも高さが違うのか、草が多過ぎてよくわからんが、答えは「そもそも高さが違う」。石垣の向こうの森は西ノ丸。

>> 大坂城 [3/8] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
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大坂城 [2/8] 豊国神社の秀吉公(銅像)にご挨拶して蛸石へ” への4件のフィードバック

  1. はじめまして。
    とても面白く拝見しています。
    小豆島の残念石も見たことがあって興味深いです。
    ところで重箱の隅を突くようですが残念石の小豆島は香川県です。

    1. トリフィドさま
      コメントありがとうございます。
      小豆島、なんと香川県だったんですね!ご指摘ありがとうございます。家島(えじま)と同じく姫路の所属かと勝手に勘違いしておりました。さっそく手直ししておきます m(._.)m

  2. 桜門両側の今現在ある土塀が昭和44年の復元で
    桜門自体は明治の復元で大丈夫です^^

    1. こんばんは、コメントありがとうございます。
      そうですね、桜門の看板をよく読むと「桜門(高麗門)は明治20年に陸軍が復元」、土塀は台風で倒壊したので「昭和44年の復元」でした。失礼しました。さっそく直しておきます!

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