姉川古戦場 : 浅井朝倉軍vs織田徳川軍の戦場となった場所

1570年(元亀元年)、北近江の戦国武将・浅井家を攻撃した織田軍が、それぞれ越前朝倉氏、徳川氏を援軍とし、浅井朝倉連合軍vs織田徳川連合軍の激戦が発生した姉川古戦場。この戦いは、以前 信長が朝倉氏を攻撃した際、信長が妹お市を嫁に出して同盟を結んでいた浅井氏が突如離反、信長は南北を挟まれ命からがら退却した「金ヶ崎の退き口」の復讐戦だった。北近江を流れる姉川を挟んで南に織田徳川軍、北に浅井朝倉軍が布陣、両者あわせて数千人が負傷討死、姉川は赤く血に染まったと言われる。付近には陣を敷いた城館・山城跡や、合戦にちなむ地名などが残っている。

姉川古戦場<基本データ>
●名称: 姉川古戦場
●所在: 滋賀県長浜市 (マップ)
●軍勢: 織田信長/徳川家康vs浅井長政/朝倉義景
●発生: 1570年(元亀元年)
●遺構: 土塁、城館跡
●関連: 滋賀県観光情報HP北びわこ観光HP


<訪問記>

anekawa-3870a-3892姉川古戦場は、浅井家の本拠地 小谷城跡(小谷山)の南を東西に流れる姉川に架かる「野村橋」手前にある。実際はここら一帯で戦があったのだろう。こちらが史跡としての姉川古戦場。看板やら石碑やら、色々立っている。

anekawa-3870b-3881まずは案内板。合戦に関する詳細事項をここで勉強していこう。姉川を挟んで、南に織田徳川、北に浅井朝倉。東が浅井vs織田、西が朝倉vs徳川、という布陣だった模様。周囲にも関連する史跡がいくつかあるようだ。恐らくオリジナルと思われる合戦絵図がユニークなタッチで面白い。ちなみに合戦当時(1570年)、大将である織田信長は37歳、浅井長政は25歳という若さ。

anekawa-3878現在の姉川の様子。橋の全長は結構あり、当時の火縄銃(射程距離50mほど)では全く届かないので、恐らく土手の上ではなく河原に降りて対峙していたものと思われる。

anekawa-3879a-3883姉川の様子その2。今は水も少なく簡単に歩いて渡れそうだが、以前はもう少し水量も深さもあったそうだ。

anekawa-3882史跡の近くには、石碑が2つ立っていた。中央にある大きな石碑は姉川戦死者之碑、右にあるのは元亀庚午 古戦場の碑。ちなみに庚午(こうご)とは干支(えと。ね・うし・とら・う…の十二支ではなく、この十二支に十干(じゅっかん。こう・おつ・へい・てい…)を掛けあわせた全60通りの年を表す記号)で、昔の年表記に年号とセットでよく出てくる。

anekawa-3883a-3877正面の姉川戦死者之碑の裏側には、戦いのあった日付である 元亀元年庚午六月二十八日 為陣没者建之、とある。

anekawa-3889姉川沿いではなく、姉川に架かる橋に続く道沿い(しかも道からは反対側で見えない)に、姉 川 古 戦 場 という1文字ずつの古い看板が立っていた。

anekawa-3890a-3880ここは史跡古戦場とはいえ、説明板や石碑以外は特に何も無いので、周辺に残る他の史跡を訪ねてみよう。先ほど見た案内場に周辺の史跡一覧が載っていた。今は「八」の古戦場碑、近くの「七」ちはら公園を経て、朝倉氏が陣を敷いたという「十一」三田村氏館跡へ行ってみる。

anekawa-3893a-3904ちはら公園 到着。ちはら とは血原と書き、このあたり一帯が負傷討死した兵士の血で赤く染まった原っぱ、という意味だ。今は休憩所が立ち、周囲は子供たちが遊べる広場になっていた。夕方だが子供たちが遊んでいたので、あまりうろうろせず案内板等だけを見てみる。

anekawa-3894血原公園に立っていた案内板。案内板の上には朝倉軍の猛将 真柄十郎左衛門直隆の大太刀(刃のみ)通称「太郎太刀」の原寸大模型が飾られている。こんな槍みたいに長い大太刀を振り回していたのか!? 下にはその長大な大太刀を振りかざす真柄直隆の絵がある。また案内板によると、浅井朝倉軍は当初ここから3キロほど北の場所に陣を敷いていたが、合戦が発生した朝に決戦を覚悟しこの姉川の北岸付近に移動してきたという。朝倉軍はこの近くの三田村氏館に布陣したとのこと(この後行く所)。前述の大太刀を振るう猛将 真柄直隆はここで徳川軍と戦い、討死したという。ちなみにこの太郎太刀は現存し、名古屋の熱田神宮に奉納されているという。

anekawa-3894a-3900もう1つ、血原公園の姉川沿いあたりに木々に隠れるように立っていた古い石碑を発見。姉川古戦場趾と書かれている。石碑の前には割と新しい花が備えられていて、地元に大事にされている史跡だと感じた。

anekawa-3894b-3903石碑の裏側を見てみると元亀元年…とあったので、もしや戦いの直後に造られた石碑!?と一瞬思ったが、よく見ると戦いの日が刻まれているだけだった。いつ建立された碑かは結局不明。

anekawa-3894c-3902石碑の前には姉川古戦場の看板。簡潔に記してある。

anekawa-3897血原公園の姉川側には大きな土手が築かれていた。地元の方との話によるとこの土手は戦国時代から造られていた!という。近くに説明板があり、この土手の上にも登れるというので、案内していただいた。

anekawa-3897a-3895かすみ堤 看板。武田信玄により発明されたと伝わり、別名 信玄堤とも呼ばれる。提に切れ込みが入っていて、水害(洪水など)が発生した際にその切れ込みがクッションの役割を果たし、提が決壊するのを防ぐとのこと。

anekawa-3897b-3899堤防の上にあがってみる。切れ込みがどこかは分からなかったが、数百年続く立派な堤防だ。

anekawa-3898また堤防の上からは、姉川の合戦で家康軍が陣を敷いた勝山が見える。中央奥の緑の小山がそう。

anekawa-3905堤防を降りると、血原の大決戦という手描きの説明板があった。文字が消えかかっていて読みづらいが、これも地元に大事にされてきた場所ということだろう。中央で一層長い大太刀を振りかざすのが件の真柄直隆か。

anekawa-3906そのそばには、血原養水底樋跡という石碑もあった。これは江戸時代の遺構で、当時の彦根藩がここから灌漑(かんがい)のために水を引いた用水路の跡だとか。

血原はこれぐらいにして、朝倉軍が決戦当日に陣を敷いていたという近くの三田村氏館跡(三田村城跡とも)へ行ってみよう。

anekawa-3907三田村氏館跡 説明板。60m四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁や虎口、堀跡などが残るという。この看板の下には専用のパンフレット(A4カラー1枚両面)があった。それによると、ここは浅井氏三代に仕えた重臣 三田村左衛門尉の屋敷跡で、姉川の戦いにも出陣、3年後の小谷城の戦いでは直前に織田軍に降伏を申し出るも受け入れられず、一族は捕らえられ打首になったとか。

anekawa-3908こちらが三田村氏館跡の虎口跡とされる場所。石積みは当時のものではないかもしれないが、その左右の土塁は当時のものとのこと。

anekawa-3909土塁の手前には、いかにも堀跡ですという凹みが周囲を取り巻いていた。

anekawa-3913土塁の内部へ。中は現在は傳正寺の敷地になっている。そして敷地の周囲には、この土塁!

anekawa-3919土塁の先端からは上に登る階段もついていた。土塁の上から見下ろしてみる。奥には「櫓台跡」とされる鐘楼も見える。

anekawa-3920鐘楼。土塁と接続している。

anekawa-3925a-3917土塁はここだけではなく、寺の敷地の周囲ほとんどを囲んでいる。住宅との間もこのとおり土塁が仕切っている。

anekawa-3926敷地の奥のほうを散策する。このあたりにも土塁がしっかり残っている。よく見ると左奥の方に何やら石碑らしきものが見える。

anekawa-3926a-3925石碑は「三田村氏有縁之碑」とあった。小谷城落城後に一族は処刑され三田村氏は途絶えたと考えられるが、こうして地元では祀られていた。

訪問時期:2014年6月
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