松代城 [前編] 江戸後期の姿に美しく復元された真田家拾万石の居城

松代城は元々は海津城と呼ばれ、信濃に進出した武田信玄が上杉謙信との川中島合戦に備え拠点として築いた城と言われる。山本勘助による普請と伝わる。武田氏滅亡後は城主が巡るましく入れ替わり、江戸前期に真田信之が城主となって真田十万石の拠点として城下町とともに発展した。現在の石垣造りの城はその頃に改修されたものと思われる。1711年に幕命により松代城と改名。明治の廃城後は一部の石垣のみが残る状態だったが、平成になって古文書を元に櫓門や木橋、石垣、土塁などが一気に復元された。

<基本データ>
●名称: 松代城(別名 海津城/貝津城)
●所在: 長野県長野市 (マップ)
●築主: 武田信玄 / 真田信之
●築城: 1560年頃 / 1622年以降
●遺構: 石垣、内堀、曲輪、新御殿(真田邸)
●関連: 真田宝物館HP長野市HP


<訪問期>

matsushiro-0517城跡には「南側入口」と「北側入口」があるようだが、メイン(正面)にあたる南側入口から入城。ここは二ノ丸南門跡。今は石垣と土塁の一部が残る(復元かも)のみ。なお松代城跡には立派な石垣があちこちに見られるが、櫓門や木橋などを復元した平成の大整備で石垣にもかなりの修復が入っているものと思われる。(参考:松代城跡の環境整備-長野市HP)

matsushiro-0518二ノ丸南門前に建つ「国史跡 松代城跡 附新御殿跡」の石碑。城の南に残る真田家新御殿跡も併せて史跡指定されている。こちらは後で訪問予定。

matsushiro-0518a-0578もう1つ二ノ丸南門前に建つ、全体マップ付きの案内板。立派な内堀とその内部に石垣に囲まれた方形の本丸があり、その周囲には土塁で囲まれた二ノ丸があるようだ。天守は無く、本丸北西端の二層櫓(“戌亥櫓”)が天守代わりだった模様。

matsushiro-0521復元された立派な本丸入口「太鼓門」。木橋と城門、その奥の枡形とちらりと見える櫓門の組み合わせが正に”THE御城”。この場所が映画などの撮影に使われることもあるそうだ(例:のぼうの城 で、”清洲城”に到着した滝川一益が会議は終わったと告げられるシーン など)。

matsushiro-0523太鼓門 および 太鼓門前橋 説明板。2枚セットなので字が小さく読みづらいが、どちらも発掘調査と古文書の内容を元に忠実に往時の姿・位置を復元したという。

matsushiro-0525一旦本丸周囲の石垣や堀を見てから、本丸へ入ろう。少しナナメから見た太鼓門。かなりかっこいい。ちなみにこの立派な内堀は、明治以降「完全に埋め立てられていた」そうで、どこが堀跡だったのかすらわからない状況から、古絵図を元に発掘調査で場所を確定し、復元したそうだ。堀埋め立てとともに枡形も壊されていたのか、橋が架かる少し出っ張った部分の石垣も本丸側と較べて石材が新しい感じがする。復元前の堀が埋まった状態の写真は長野市HPで見られる。

matsushiro-0526まずは内堀に沿って西へ。キレイに固められた土塁に沿ってカーブを描く内堀。

matsushiro-0527よみがえる松代城 説明板。古文書の記載内容を、実際の発掘結果と突き合わせて整合性を確かめた上で復元しているとのこと。石垣、堀だけでなく、土塁も復元されているようだ(絵図の緑の部分)。現存している土塁はかなり削られてしまっていることが多いが、復元土塁はキレイに盛り上げられていてある意味石垣以上の迫力がある。後で土塁めぐりもしてみよう。

matsushiro-0530本丸石垣 南西端。石垣は比較的ゆるやかな角度だ。加工度合いを見ると、野面積みと打込み接ぎの間の子のような状態か。よく見ると、角の方は粗い石積みだが、桜のあるあたりから右側は布積み(横の目地がしっかり合った状態)なようだ。平成の復元か、あるいは江戸時代の補修の跡か。

matsushiro-0531南西端から、太鼓門前橋方面を見る。

matsushiro-0532s本丸周囲に広がる二ノ丸の北西方面へ。 復元された土塁が二ノ丸西側を囲っている。ポツネンと建つのはトイレ&管理棟、L字の折れ曲がりの部分(建物の外側)に100名城スタンプが置いてあるので忘れずに押していこう。土塁の一部には埋門もあるようだ。

matsushiro-0537本丸西側に伸びる土塁の真ん中あたりに、北側に抜ける埋門(うずみもん)が復元されていた。埋門は石垣に穴を開けた地下道的な門で、姫路城など近代城郭にも多く例が見られる。埋門の屋根の部分には崩れないように巨石が載せられている。江戸時代にこの巨石をここまで持ちあげるのはかなり大変だっただろう。

matsushiro-0538s埋門あたりから土塁に沿って本丸方面を見る。松代城は本丸および主要門は石垣づくりだったが、二ノ丸を始めとする周囲の曲輪は信玄築城時代からの土塁ベースだった。今は子供の格好の遊び場になっていた(子供が降りた瞬間を狙って撮影…)。

埋門の向こう側は二ノ丸の北側曲輪になるが、そちらには本丸からの搦手門があるので、そちらから出て散策することにして、一旦正面の太鼓門へ戻ろう。

matsushiro-0541a-0643太鼓門および太鼓門前橋へ。開門、かいもーん! …門は開いていた。

matsushiro-0541橋の上から見た石垣と内堀。

matsushiro-0542太鼓門へ至る、堀に面した「橋詰門」。奥の太鼓門に比べると橋詰門は小さくて弱い感じだが(それでも左右の続塀からは鉄砲射撃があって簡単には突破できないだろうが)、これはここを破って奥に攻め入られても、奥の「枡形虎口」で出迎えて一斉に討ち取る手はずなので、問題なし。

matsushiro-0543a-0545橋詰門を入った。後ろの柱(控柱)に小さな屋根を載せた「高麗門」という形式。左右の続塀には鉄砲狭間・矢狭間がずらりと並ぶ。門の内部は次の太鼓門までの間を石垣が囲った狭い部屋のようになっていて(枡形虎口と呼ぶ)、逃げ場を失った敵兵を一斉射撃などで打ち破る場所となる。

matsushiro-0544s枡形内部から、太鼓門を見る。本丸を守る3つの城門のうち、高さ11.8mの太鼓門は最大規模のものだったという。二階には時を報せる太鼓があったことから「太鼓門」と呼ばれているそう。

matsushiro-0545a-0547太鼓門を入って本丸側から太鼓門内側を売る。控柱の上に乗る巨大な丸太は、左右の石垣をまたぐ長さがある。

matsushiro-0546s本丸内部へ。訪問時は4月、桜の季節ということで、花見目当てと思われる観光客が多かった。青空と桜の組み合わせはとても映える。本丸の敷地内にはほぼ本丸御殿が建っていたそうだ。

matsushiro-0549本丸中央付近に建つ、石垣と本丸御殿跡の説明板。字が小さいので主要部分を書き下ろすと、松代城の石垣は大小さまざまな自然石を積み上げた特徴的なもので、特に本丸北西の戌亥櫓跡の石垣は城内でも古い近世初頭(=江戸初期)のものとされ、高さと勾配の美しさが当時の石工の技術の高さを示しているとのこと。明治期の改変や消失した部分を当時と同じ工法で積み直したとのこと。本丸御殿跡については、御殿が本丸内に建っていたのは江戸中期頃までで、1717年の火災で焼失後には水害も度々発生し、御殿は本丸南西の「花の丸」に移転された。右側の絵図(1751年)を見ると、本丸敷地内ほとんどが建物だったことが分かる。

matsushiro-0550a-0602説明板のあたりから見返した太鼓門。太鼓門の二階櫓部分に至るための石段が左の方に見えるが、一般公開はされていないようだ(復元に当たって内部は公開する前提で建築はしていないのかも?)。

>> 松代城 [中編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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