松代城 [中編] 本丸北西の戌亥櫓跡の石垣は緩やかで足が長い

松代城松代城 [前編] の続きです。

二ノ丸南門跡から城内へ。まずは内堀の西側へ回りながら、美しい内堀と本丸石垣を楽しむ。松代城の顔とも言うべき内堀・石垣・太鼓門だが、すべて平成の発掘整備復元によるもの。その復元 太鼓門(大手枡形)を通って本丸内部へ。


<訪問記>

matsushiro-0551a-0603本丸全景再掲。西向きだが、方形なので何処の方向を向いてもだいたい同じ感じ。右奥に櫓台の石垣が見える。

matsushiro-0553s本丸北西端にある二層櫓 ”戌亥櫓” の石垣。城内では最も古い石垣ということで、さまざまな形の石材が緩やかな角度で積み上げてある。四角ではなく内側の角が欠けている形になっているのも特徴。

matsushiro-0556s石垣の隅部を横から見る。上の方が急に角度が急峻になっているのが分かる。本当は熊本城のような緩やかな扇の勾配にしたかったが、こうなったという感じか。

matsushiro-0557櫓台に登る前に南側を見てみる。本丸周囲を囲む石垣への登り口(恐らく往時は石垣の上に土塀があり、そこの鉄砲狭間から銃撃するための階段か)と、奥にはひときわ大きな石段が見える。古絵図によると時代によって南西端には櫓があったり無かったり、だったようだ(幕末時には四隅に二重櫓が建っていた模様)。

matsushiro-0560sでは戌亥櫓台の上へ。木で階段が作ってあり、石垣の上は展望台になっている。本丸内部から櫓台への直接の石段が見当たらないのは、壊されていたからか、あるいは周囲の石垣上に一旦のぼって、石垣の上を通って櫓へ入るルートだったか、だろうか。

matsushiro-0561a-0610s戌亥櫓台上 全景。桜の巨木が2本立っているだけで、周囲がよく見渡せる整備された展望台、という感じだ。ベンチや、眺望案内板もあった。

matsushiro-0561s戌亥櫓台上から見下ろした本丸内部。江戸時代(中期まで)はビッシリと本丸御殿が建ち並び、明治の廃城後は畑や遊園地だった時代もあるそうだ。

matsushiro-0562s戌亥櫓台から見下ろした西側土塁と内堀。土塁の上は意外と幅広い。子供が簡単に土塁に登れてしまっているが、甲冑を着て武器を抱えて登るのは大変かもしれない。

matsushiro-0565s最後に戌亥櫓台上から見下ろす東側。戌亥櫓台から東へ延びる石垣の奥には搦手門が見える。大きな櫓門は「北不明門(きたあかずもん)」あるいは千曲川に面していた築城当初は「水ノ手御門」などとも呼ばれていたようだ。

matsushiro-0566その搦手門前にある「海津城址之碑」。真田拾万石の「松代城址」ではなく信玄時代の「海津城址」で碑を作ったのは何故だろうか。碑が建てられたのは1921年、この年は1622年に真田信之によって松代藩が出来て300周年記念だった。1622年段階ではまだ「松代城」ではなかったが既に「海津城」でもなく「松城」と呼ばれていた。なぜ海津城趾なのか結局不明。そのときの当地の名称が「海津城址公園」だったから? 真田宝物殿の展示資料等を見れば分かるかもしれない。

matsushiro-0568本丸北東の「北不明門」へ。あかずもん だが開いている。北不明門だけでなく、松代城には東不明門、西不明門もあったというので、他の城で見られる、いわゆる鬼門方向(北東=艮[うしとら])の不明門とはちょっと違うようだ。(参考:長野市HP

matsushiro-0569搦手口である北不明門の櫓門を越えて、本丸北側へ向かう。南側にあった太鼓門に較べてこちらはかなり小ぶりだが、狭間は上下ともにしっかり付けられている。

matsushiro-0569a-0612北不明門を出ると、L字型の枡形虎口になっている。外側を守る土塀にもずらりと狭間が並ぶ。

matsushiro-0570本丸北側の枡形虎口の出口にあたる高麗門。

matsushiro-0572高麗門を外側から。

matsushiro-0572a-0571北不明門の説明板。以前は千曲川がすぐ外側を流れていたため「水ノ手御門」と呼ばれていたが、18世紀中頃に千曲川が河川工事で流れが変えられ水ノ手じゃなくなったので、それ以降は北不明門と呼ばれるようになったとのこと。また右下の絵によると、江戸時代の造成で築城当時から3mほど石垣が埋められていたことが発掘調査で判明したとか。土塀の下にある2段の石垣の更に地下に3mもの石垣が眠っているということだろうか?おもしろい。

matsushiro-0573北不明門から本丸北側へ出て散策。戌亥櫓台を外から見上げる。石垣の角度が緩やかなので、足が長い。

matsushiro-0574本丸北西側から見た戌亥櫓台石垣と北不明門。櫓台の石垣から西側には土塁が直接伸びていて、本丸西側と北側を遮っている。

matsushiro-0576そのままぐるっと回って再び本丸外周の南西側へ。一部土塁が複雑な形をして復元されているところがあった。今歩いているところは復元土塁の外側の元外堀。今は埋め立てられて道路になっている。

matsushiro-0577松代城跡 木札の説明板があった。注目すべきは最後「江戸時代の半ばには御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました」とある。御殿焼失後に花の丸移転後は、本丸は櫓が建っているだけで特に使われることなく放ったらかしだった、ということだろうか。なので廃城後に本丸内の櫓等はすぐに破棄され、逆に花の丸の御殿は真田邸として保存された(後に火災で焼失)のだろう。

matsushiro-0578a-0522復元土塁を見るべく、再度 二ノ丸南門から城内へ。こちらが土塁の入り口。

matsushiro-0578b-0528復元土塁の内部へ入る。丸馬出のような形をしているが、江戸末期の縄張図(イメージ) を見ると、兵が隠れる場所か何かか。(二ノ丸南門の左側の部分)。

matsushiro-0580復元土塁の超広角ショット。奥は行き止まり。これは何だろう。

>> 松代城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
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