小諸城 [前編] 廃城後すぐに神社/公園となり遺構が良好に残る

小諸城は武田信玄が甲斐から東信州へ領土を広げていた際に構築した城で、山本勘助による縄張り(設計)と伝わる。城下町よりも低い位置に城を築いた「穴城」と呼ばれる珍しい構造。信玄の頃は土ベースの城だったが、その後の変遷を経て秀吉政権下で小諸城主となった仙石秀久により、現在の惣石垣の城に大改修された。金箔瓦を持つ3層天守があったが江戸時代に落雷で焼失、再建されなかった。明治になって役目を終えた小諸城跡は、本丸跡に懐古神社を祀る市営公園”懐古園”として整備され、城の遺構としては多数の巨大石垣と深い空堀、そして大手門・三之門が現存する。

小諸城<基本データ>
●名称: 小諸城 (別名 白鶴城)
●所在: 長野県小諸市 (マップ)
●築主: 武田信玄 / 仙石秀久
●築城: 1554年 / 1590年
●遺構: 天守台、現存2門、石垣、空堀、曲輪
●関連: 懐古園HP小諸市観光協会HP


<訪問記>

小諸城跡は明治の廃城後に払い下げとなった際、旧藩士たちの手で懐古神社、懐古園として保存されたことから、動物園や駐車場などが設置はされたものの、今もほとんどの城域が宅地化・道路化などせず城址公園として残っているようだ。まずは駅前の駐車場(SLが展示されているところ)から散策スタート。

komoro-0837駐車場から城内へ入るところに立つ案内図。灰色が石垣、水色の部分は(水堀だと思いがちだが)空堀。青丸はトイレ、緑四角は建物。現存2門のうち三之門はすぐこの先、大手門(現存)は駅の向こう側にあるようだ。では城内へ。

komoro-0838a-0979城内に入るとまず見えてくるのは、黒い石垣の上に乗っかる巨大な櫓門。江戸時代中期に建設された「三之門」(現存/重要文化財) だ。これは裏側(内側)で、駐車場から城内へ入るとこの場所に出るようだ。まずは門を見てみよう。

komoro-0841a-0848s三之門正面へ。1階の門の部分は太い柱に太い冠木(1Fと2Fの間にある横柱)、分厚い木戸と脇戸には鉄板が貼ってある堅固な様相、対して2階は少し優雅な雰囲気も漂う印象。中は住宅風だとか。この門は仙石氏による江戸初期に築かれたものの江戸中期に洪水で流出→再建で、江戸中期の平和な時代の建造物だ。門に架かる懐古園の看板の文字は、何と江戸幕府15代(最後)将軍 徳川慶喜公の次に徳川宗家を継いだ徳川家達氏(継いだのは6歳のとき)によるもの。

komoro-0842三之門 説明板。表の向かって右側に立つ。

komoro-0848a-846再度 門を潜って城内へ。しかしこの門が流出するほどの洪水とはどれほどの大洪水だったのだろうか。石垣もそのときに造り直したと思われる、他の部分(野面積み)とは異なる、表面がキレイに整えられた「打込み接ぎ」様式。門の左奥に見える、根っこがむき出しになった超巨木の切り株が気になる。切り株の下の部分の石垣は、三之門の脇石垣の上にかぶさるように増設された切込み接ぎ布積みだ。

komoro-0848b-0844城内は三之門の先にある柵より先が有料となる(大人300円)。三之門自体は無料エリア内。その柵の手前にあったカラフルな案内図。カラフルなのはいいが、色々描き込まれ過ぎていて、ちょっと読みづらい。

komoro-0848c-0966料金所を越えると、右側には高い石垣がずっと続く。二ノ丸の石垣のようだ。巨大な石が縦横無尽に積み上げてあるという感じ。石垣の真ん中に小さな木札が付いている。

komoro-0848d-0965何とこの石垣は廃城後すぐに道路縁石としてリサイクルされてしまい、長い間 中の土がむき出しになったままだったという。城の石垣が廃城後に近隣の工事に用いられるケースは結構多い(例:近江鉄道は水口城の石垣を再利用)。約100年後の昭和59年に当時より大きな石を使って石垣を復元したという。しかし何故わざわざ「当時より大きな石を用いて復元しました」って書いたのだろう?

komoro-0849asまずは二ノ丸へ向かおう。右側の石垣の上が二ノ丸、入口は向こう側だ。真っ直ぐ進めないよう道が折り曲げてある。折れ曲がった先あたりは「二ノ門跡」。

komoro-0850a-0859sここが二ノ丸跡への入口。向かって左側の石垣には、片岩のような薄っぺらい石が積んである。片岩の石垣といえば徳島城の緑色片岩が有名。

komoro-0851s二ノ丸跡へ。石碑には「徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際に逗留したところ」と書いてある。秀忠はここから西軍の真田昌幸が守る上田城を攻めるも少数の真田軍の猛反撃に合い10日間も足止め、その後何とか和睦して先に進むも、結局 関ヶ原合戦に遅参するという大失態を犯す。当然家康激怒。そのとき秀忠に代わって家康に謝り倒して許しを得たのが、ここ小諸城主だった仙石秀久。また武田信玄が小諸城を建てる前は、ここ二ノ丸を中心にした「白鶴城」があったという。

komoro-0852二ノ丸内部。周囲は土塁に囲まれており、しっかりと残っている。中央部は今は花畑?のようで何かが植えられていた。

komoro-0853二ノ丸の上から三ノ門を見下ろす。三ノ門の向こう側には巨大な土塁が今も残る。

komoro-0857s二ノ丸の奥の櫓台(見張り台)と思われる土塁。低い城内の北東端に位置する見張り台か。

komoro-0860二ノ丸を降りる。目の前には「番所跡」があった。石碑には「いかめしい銃や槍などが立てられていた検問所」と書いてある。奥の2つの石碑は皇太子/皇后の行幸記念碑。

komoro-0862番所の先には「中仕切門跡」があった。木札の奥の地面に埋まる石は門の柱を支えた礎石だろう。木札だけで特に説明板等なし。

komoro-0866中仕切門の先は北ノ丸と南丸がある。北ノ丸跡は今は弓道場になっていた。的上の文字は「徳観」ではなく右から「観徳」と読む。これは弓道用語で「観徳の器 (かんとくのき)」という言葉があり、射を通じて自らを厳しく律しているかが判断できる、という意味だとか。

komoro-0871北ノ丸跡(弓道場)の向かい側は、南丸跡。こちらは一段高く東西に長い曲輪になっている。またこの南丸の石垣は野面積みだが珍しく垂直に積まれており、造られたのは関ヶ原前後の戦国末期。動乱期の築城は絶対に落城させない!という城主の気迫を感じる。

登り口の手前に大きな石が埋められている。その前の石碑はこの石に関するもので、この石は「鴬石(うぐいすいし)」と呼ばれ、城主の通行や祝い事があった際などにウグイスの鳴き声を立てたという伝承が残っているという。俺が通っても特にウグイスの音は鳴らなかった。では南丸へ登ってみよう。

komoro-0872南丸の上。石垣で囲まれたL字型をした2mほどの高さの土台で、向こう側は深い空堀だった。上から見たほうが石垣が垂直なことがよく分かる。

komoro-0874南丸の上から見下ろした深い空堀。南丸の南側に位置する「木谷」と呼ばれる空堀のようだ。

komoro-0879s南丸を降りて先へ。本丸の手前の空堀には、黒門橋という木橋が架かっていた。この橋を渡れば本丸。

komoro-0878橋の上から、本丸を取り囲む空堀を見下ろす。本当に深く掘り込んである!驚き。

komoro-0880橋の先は「黒門」跡。礎石も2つ前後に並び、本丸の正面を守るに相応しい大きな門が建っていたようだが、今はその脇の石垣も崩れかかっている。黒門そのものは近くの正眼院の山門として移築されたと伝わる(参考)。

komoro-0882本丸には懐古神社が祀られている。橋を渡った先に建っていた懐古神社の由緒書。沿革、祭神などが細かく記されているが、珍しいのは境内に残る遺構や碑などが列挙されていること。神社脇の小祠に家光公・春日局の木造(左甚五郎作)があったが今は徴古館(入口横の博物館)に展示されているとのこと。

>> 小諸城 [中編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
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