金沢城 [5/6] 本丸跡は森の様相、復元工事中の橋爪門は見学可

金沢城金沢城 [4/6] の続きです。

二ノ丸から本丸附段の現存三十間長屋を見て、いもり坂口から城外周へ。石垣の造り方 現物展示を見て、南端の4段高石垣へ。明治時代に4段構成に造り替えられたものだった。南面石垣を見たら、来た道を戻って今は森と化している本丸跡へ向かおう。


<訪問記>

外周南面石垣の向かい側には、明治に埋め立てられた城の南西側 外堀「いもり堀」の一部と、その南端にあった「鯉喉櫓(りこうやぐら)台」が復元されている。

kanazawa-3454こちらが復元された「いもり堀」の一部と、南端の鯉喉櫓台。石垣は半分が地面に埋まっていた現存物、半分が破壊されていたので新たに造って載せた部分。そう言われると上半分と下半分とで微妙に石垣の色合いが異なる気もする。

いもり堀は明治末に埋め立てられ何とテニスコートにされていたとか。そのコートも平成になって移転、発掘調査の上、平成22年になって堀の一部と櫓台が復元されたという。いもり堀は往時は幅40m、深さ10mもあったそうだが、復元されたのはその一部の幅のみ(写真の左側も元は堀だったが今は道路になっているのでこれ以上復元できない)。

kanazawa-3454a-3452鯉喉櫓台石垣の説明板。堀底から14m以上の高さがあったが、堀の埋め立てと同時に上部が壊された。埋め立てた地面の中には一部の石垣(それでも10m高)が残っていて、それを元に上部を推定し復元したという。一番左の写真がすごい迫力。地面を掘ると、これだけの整然と積まれた石垣が出土している!!

kanazawa-3455非常に分かりやすい、慶長時代と現状と復元した部分の石垣の断面図。元々は青い線で描かれているように、本丸側は高石垣が上までどどんと伸びていた。堀の埋め立てに利用するためか土塁が削られ高石垣は三段に分割、更に下の御花畑も削られ四段になったようだ。さらに江戸時代は復元された堀の外側にある車道の向こう側ぐらいまでが堀だったようだ。火縄銃の射程距離(50m)を意識した40m超の外堀は、近世城郭では必須と言われている。

さて外周南面石垣を見終わり、いもり坂口から再度本丸附段へ戻る。ここから南の本丸方面へ向かおう。

kanazawa-3462三十間長屋のあった本丸附段と、南側の本丸との間には、大きな櫓門があった。ここがその門跡。切込み接ぎの石垣がその堅固さを物語る。

kanazawa-3464鉄門跡 説明板。鉄板を扉や柱に貼り付けて強度や火耐性をUPさせた門を「鉄門」と呼ぶ。てつもん、ではなく、くろがねもん。銅板を貼ると赤くなるので銅門(あかがねもん)と呼ばれることが多い。

kanazawa-3465鉄門を越えて本丸へ。築城当時は天守や御殿を始め多くの建造物が建ち並ぶ城の中心地だったようだが、築城からそれほど経っていない1602年には落雷で本丸全体が炎上(火薬庫に火が移ったからとか)、その後は天守は再建されなかったという。今はこのとおり森。

kanazawa-3468どんどん奥へ進んでいこう。ずっと森で本丸跡の雰囲気は皆無だが、道がキレイに整備されているので散策するのは容易。

kanazawa-3470本丸跡の中心部あたりに少し開けたスペースと説明板があった。奥の木が生えているところが盛り上がっていて土塁のような気がしないでもないが詳細不明。

kanazawa-3470a-3469本丸説明板。古くは金沢御堂(加賀一向一揆の本願寺本拠地)があった場所という。

kanazawa-3471本丸跡の向かいあたりに、日露戦役記念碑が建っていた。城跡には師団などが置かれていたこともあり、忠魂碑など戦時関連の碑も多く見られる。

kanazawa-3473さて本丸跡を一番奥まで来ると、柵で覆われて視界が開けた展望スペースがあった。ここが例の高石垣跡の真上あたりか。

kanazawa-3474辰巳櫓跡 説明板。長屋を備えた立派な櫓が建っていたという。今の石垣は先ほど下で見たとおり、堀の埋め立てのため上部が削られたため、実際に櫓があった部分は今は空中。

kanazawa-3476辰巳櫓跡の展望エリアからの眺望。いもり堀と鯉喉櫓台が見える。いもり堀は、今の復元堀の向こう側に隣接する3車線ぐらいの車道あたりまでが当時の外堀だった。写真では分かりづらいが、手前の下に見えている四段石垣の上3段分が当時の高石垣だったので、櫓自体はこの数m先の空中に建っていたイメージか。

kanazawa-3477本丸から二ノ丸方面へ歩く。東の丸 と書かれた看板が建っていた。草ぼうぼうで中はとても見えないが、史料によるとこのあたり本丸東側の「東の丸」と呼ばれたエリアには、先ほど見た辰巳櫓の他にも中櫓・丑寅櫓(うしとらやぐら)の3つの櫓が百間堀の上の高石垣の上に並んでそびえていたという。

kanazawa-3478本丸を抜けて再度二ノ丸方面へ。ここからは道が下りになっていて、下に降りると本丸と二ノ丸・三の丸の間にあたる「鶴の丸」へ出る。

kanazawa-3480本丸と二ノ丸〜鶴の丸をさえぎる場所にある、大きな石垣。中央部分がナナメに切られ薬研堀のようにも見えるが、よくみると斜面にも石垣が積んである。二ノ丸から直接本丸(東の丸)へこのルートでは行けないように仕切っていたと思うのだが、左側の本丸石垣だけでなく、なぜ右側の石垣もあるのかは不明。

kanazawa-3482その正面にはやや近代的な建物があった。説明板によると1848年に完成した武具土蔵で、明治以降も陸軍の倉庫として利用され今に残るという。末期ではあるが江戸時代の大規模な土蔵が現存するのは珍しい。なお右側奥に見えている石垣は東の丸の石垣、この建物は「鶴丸倉庫」と呼ばれているが、建っている場所は鶴の丸ではなく東の丸附段とのこと(鶴の丸はこの右側下段)。ややこしい。

kanazawa-3487東の丸附段を降りて下段の鶴の丸へ。東の丸附段の石垣を見る。このあたりは野面積みの石垣が残るかなり古い前田利家時代の石垣と言われているそうだ。気合を入れて整えた隅石と、中央の野面積み部とのコントラストがすごい。説明板を見てみよう。

kanazawa-3487a-3485石垣散策シリーズその10、東の丸北面石垣。1592年といえば秀吉が北条氏を破って天下統一を成し遂げ(1590年)、唐入りを目指して名護屋城を建て文禄の役をおこす頃。1592年だとまさに文禄の役真っ最中、重臣だった前田利家は家康とともに名護屋城にて各軍の指揮を採っていた(総司令の秀吉は母の葬儀やら秀吉の誕生やらで役の間は大坂へ行っていることが多かった)。恐らく金沢城のことはあまり対応する余裕は無かっただろうから、誰かに命令してやらせていたか、役が終わって金沢に戻ってきてからのことだろうか。

kanazawa-3488鶴の丸は現在、こんな感じで庭園および休憩所(パネル展示スペース)になっている。休憩所に入ってみよう。

kanazawa-3490休憩所内には色んなパネル展示がされているがその中の1つ、金沢城に残るさまざまな石垣の時代と写真の一覧表。利家の築城期から幕末まで、野面、粗加工、切込み接ぎまで、本当にさまざまな石垣があるようだ。

kanazawa-3483二ノ丸に復元されている櫓群のうち、橋爪門(櫓門の方)は復元工事中だった。なんと復元工事の様子を、建屋の外から覗き見ることができる展望台(覗き台)が設置されていて、鶴の丸から行くことが出来るようになっていた。その覗き台への入口にあった、橋爪門の説明板。

kanazawa-3484覗き台の上から見た、復元工事中の橋爪門櫓門(二ノ門)。石川県HPによると平成24年6月から工事が始まり、平成27年春に完成予定とのこと。これが完成すれば三御門と言われた石川門(現存)、河北門(復元済)そして橋爪門が揃い踏み。これが完成すれば…次は本丸の櫓だろうか?

>> 金沢城 [6/6] へ続く。<<

訪問時期:2013年11月
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

このブログは果たして何位でしょうか? (=゚ω゚)ノ